読書逍遥第302回『ニューヨーク散歩』(その3) 司馬遼太郎著
『ニューヨーク散歩』(その3) 司馬遼太郎著
[ドナルド・キーン教授のこと]
昼間のコロンビア大学の構内は、市中にあるせいか、マネキン人形のように陰影に乏しい。ただひとつ、生命感のある威厳を持っているのが中世風のドームのある建物だった。今夜、そのドームの下で、晩餐会がある。
今夜と言うのは、1992年3月2日午後7時半である。大学の主催により、日本学の世界的な研究者であるドナルド・キーン教授(1922-2019)の定年退官のお祝いの会が開かれる。
日本学は、かつては辺境の学問であった。キーン教授の半生の労によって、今では世界文明という劇場のなかで、普遍性というイスをもらっている。
キーンの教師、角田柳作(1877-1964)先生
「角田先生は明治10年の生まれで、当時の知識人のつねかもしれないが、あらゆる日本語を読み込むことができた。西鶴でも、伊藤仁斎の漢文でも、特別の準備なしに全部読める。
明治10年生まれというのは、若い人に実感のある年齢ではないが、私のように幕末や明治の人間たちに親しんできたものにとっては、明治10年生まれは遅れてきた若々しい世代と言う気がする。
漱石は明治維新の前年の生まれだし、鴎外は維新より6年前、子規は漱石と同年である。
右の3人が活躍期に入るのは明治30年ごろからで、以後、明治の文章は激変する。
その頃、角田先生は青年期をむかえた。それまでの明治の文章は、漢文訓み下しのようなものが多かった。江戸の式亭三馬の『浮世床』や『浮世風呂』なども、まだ読まれていて、また漢文の素養は、ごく普通の教養だった。
角田先生の青年期は、そういう潮目にあった。前時代の人たち同様、江戸期の文章を読むことは、こんにちの若い人が森鴎外を読むよりも楽だったろう。
(バーバラ・ルーシュ博士のことばより)
「角田柳作先生は、非常に美しい真っ白(いや銀色)の髪の老紳士で、大変な美男子でした。私は、もし光源氏が八十位まで生きていたならば、きっと角田先生のような容貌になっていたにちがいない、とふと思ったことがあります」
バーバラ・ルーシュ博士は、「ドナルド・キーン日本文化センター」創設立役者