第72回『詩人与謝蕪村の世界』森本哲郎
冨田鋼一郎
有秋小春
ときの人、カマラ・ハリス氏ではない
幕末の米外交官、タウンゼント・ハリス(1804-1878)のこと
☆☆☆
タウンゼント・ハリスが日本にやってきたのは、ペリーが日米和親条約を結んだ翌々年の安政3年(1856)である。
来日した目的は、ペリーが結んだ和親条約を改定して、通商条約に仕立て直すことであった。
幕府はこれに対し、消極策をとった。大統領の書簡を持つハリスに対し、江戸に入れようとせず、下田に留めておこうとした。いわば無目的の時間稼ぎだった。
下田は、伊豆半島の南端にあって、相模湾にのぞむ海港である。ここは日本史に意味をもったのは、先の和親条約によって、名ばかりの開港になったためである。ハリスに対し、玉泉寺という寺を総領事館に提供した。
ハリスにとって、この狭い下田のまちの人々が、日本人の見本になった。山は山頂まで耕され、人々はよく働いていた。
庶民の住居は清潔で、「世界のいかなる地の労働者でも、下田の貧しい人々ほどよい暮らしをしている例はないだろう」と書き、いわば日本人一般に対し、強い好意を持った。
安政5年(1858)、日米修好通商条約の調印を見た。
当時の日本は西洋風の法体系を持たなかったため、ハリスの主張する治外法権を認めざるを得なかった。しかしハリスは、他の条項については特に日本側が不利という内容を作らなかった。ハリスの好意をしだいに日本側は理解するようになった。
ハリスの墓は、ブルックリンの共同墓地にある。墓碑銘には、「彼が結んだ条約はアメリカ国民だけでなく、日本国民にも満足を与えた」とあり、また「日本国民の権利を尊重したので、彼らから”日本の友”という称号を得た」とある。