読書逍遥第300回『ニューヨーク散歩』(その1) 司馬遼太郎著
『ニューヨーク散歩』(その1) 司馬遼太郎著
人間の長い歴史と文化に関心をもつ司馬遼太郎が、ニューヨークの町の何に興味を持つのか?
ニューヨークブルックリンのユダヤ人居住区を回りながらユダヤの歴史を考える
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ユダヤ教が持つ選民思想(シオニズム)は、私どもの平俗な平等意識から見ると、恐縮するしかない。しかし偉大な民だと思うのにやぶさかではない。
紀元前2000年前に、飢饉をのがれてエジプトに移住し、民族ぐるみ奴隷にされたこともある。
紀元前1000年ごろには、エルサレムを首都として大帝国を作ったことがあったが、紀元前588年に国が滅んで以来、受難の連続だった。受難の歴史が、結束を強めた。
19世紀に入っても、なお彼らへの弾圧が続いた。
「ポグロム」というロシア語は、世界語になるほどに、帝政ロシア末期では、彼らへの弾圧が酸鼻を極めた。帝政の末期、お為ごかしの農奴改革があったが、ロシア農民の暮らしは以前に増して苦しくなった。
そんな時、ロシアでは”悪いのはユダヤ人だ”とされ、群衆が「ポグロム」をやるのである。官憲がこれを黙認した。
日露戦争(1904 -1905)のとき、新興の弱小国である日本がまさか勝つと思えなかったから、外債募集による戦費調達は至難だと予想されていた。
が、ふたをあけてみると、ロンドンの金融市場でユダヤ資本が日本に加担したことによって調達を容易にした。彼らはロシアの「ポグロム」を憎み、日本を応援たのである。
経済が悪化すると、国内に住むユダヤ人を権力や群衆が圧迫するという現象は、ヨーロッパでは古くから存在した。その最大にして最悪なものが、ドイツのナチによる650万の虐殺といわれたホロコートだったことはいうまでもない。
一つの集団が流浪し離散するという歴史は、日本にはない。中国にはある。殷の遺民がそれである。
殷王朝の始まりは紀元前17世紀末ぐらいというから、ユダヤ史の出発ほどに古いのではないか。滅んだのは、紀元前1050年位らしい。
殷人たちは、自分の王朝や”民族”のことを「商」と呼んでいた。
「商」という文字は、地形から来ている。高台のことである。特に平原の中に隆起する明るい高台という意味で、げんに殷の時代、人々は高台に聚落をつくる慣わしをもっていた。
紀元前1050年、商(殷)がほろび、商の遺民は農地を失って、四方に流浪した。かれらの一部がジプシーと化し、行商をしたから、商う人たちのことを世間では”商人”と呼ぶようになった。