読書逍遥第294回『中国・蜀と雲南のみち』(その5) 司馬遼太郎著
『中国・蜀と雲南のみち』(その5) 司馬遼太郎著
雲南省昆明に移る
昆明といえば、中国からの東南アジアへの陸の拠点として急成長している
3年前野生のゾウ15頭が生息地を離れて町に移動してきたことが話題になった
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雲南省は、平地などというなまやさいしいものではなく、天涯であった。
少なくとも、曹操の視野にはなかったようである。第一、漢語族のひとびとは住んでおらず、山も谷も湖もタイ語系やチベット語系の人たちの天地であった。
秦がまだ王国のころに蜀に将軍と文官を派遣し、はじめて漢民族の版図に入ったが、雲南省は入っていない。
ここが漢民族の視野に入るのは、漢の武帝(紀元前159-同87)のときである。
武帝は、中国史上、最も輝かしい帝国をつくった独裁者であった。
武帝は西方に異種の文明世界があることを知って、内陸に閉塞しがちな中国文明に大きな窓を開けようとした。強烈な好奇心といっていい。
彼は冒険家・張騫を得、彼を西方へ派遣し、交通路を打通し、その途中の国との外交関係を安定させようとした。
中国の外縁には、どういう人が住み、どんな文化を持ち、どんな自然があるか、という好奇心もあった。
武帝の好奇心は爆発性が強く、彼の欲求を阻む勢力に対しては、武力を用いた。主たる敵は匈奴であった。
彼は「南越」に外交交渉し、やがてそれが敗れると兵を送って、こんにちの広東省、広西省、ベトナムといった南方地方をそれぞれ従属させた。同時に、こんにちの雲南省を指向した。
当時、雲南をそのように呼んでいなかった。はるかな後世、清朝になって使われた。おそらく、雲におおわれた蜀(四川省)の南にあるからであろう。
この呼称は、成都を発って西南方に飛行す機上で実感できた。飛行時間は1時間10分だが、そのうち50分ほどが灰色の雲の中だった。やがて雲が切れ、青空が見えると、下は蜀の黒い土と異なり、丹(に)のような赤い土に、熱帯の濃い緑に似た草木のおおう地だった。
武帝のころは、四川省辺境の山地から貴州省、それに雲南省などの一帯のことを「西南夷」と呼んでいた。
牧畜好きのチベット系を除いては、ほとんどが稲作民族であり、今もそうあり続けている。
かつ魚を食べ、それも刺身で食べる。その民族が日本人に似ていることで、雲南省で稲作する少数民族が私どもの先祖の一派ではないか、という仮説は、こんにち日本の多くの文化人類学者から魅力を持って唱えられているか、支持されている。私もそのように感じる。
ただし、いきなり雲南から日本にやってきたというより、いまひとつ過程があったと考えるのが自然ではないか。
稲作は、夏の日照と多湿を喜ぶ。その適地は、中国では長江であることはいうまでもない。雲南省は、長江の上流にあたる。
稲作の人々が船を浮かべて長江を下り、中流で展開したのが、春秋戦国の楚であったろう。その下流の江南までくだって、勢力をつくったのが呉と越であったと考えていい。
さらにいうと、地理的には呉より越の人が海へ出やすい。古代の越人が、稲と稲作技術と稲作儀礼を持って、季節風に吹かれつつ日本に来た、と考えるのが、今となれば実証が困難であるにせよ、自然であるといっていい。逆に言えば、長江下流の越人の遠い祖が、長江上流の稲作「西南夷」であったろう。