読書逍遥第290回『中国・蜀と雲南のみち』(その1) 司馬遼太郎著
『中国・蜀と雲南のみち』(その1) 司馬遼太郎著
『江南のみち』、さだまさしの『長江・夢紀行』に続いて、もう少し中国・長江流域にこだわってみる
本文の前に、古代中国について大局的・文明史的に捉えた前書きがある
心に留めておきたいので、書き留めた
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「はるかな地」
鍬や鋤などの鉄板のふちに赤味噌や白味噌で壁を築き、その中央に肉やネギを置く。煮えるにつれて、赤白の味噌の壁がだんだん溶け、中身がほどよい味になってゆく。
中国文明という普遍性の高い文明が成立していく事情というのは、右のような料理法(?)に似ているのではないかといつも思っている。
極端に言えば、もともと漢民族というものは存在しなかった。
高度の土器生産に長じた民族が最初にこの可能性の高い大陸にやってきて住みつき、次いで、青銅冶金に長じた民族が来て、殷帝国を作り、さらにそれよりも冶金能力は粗笨ながら政治・軍事という集団統御に長じた民族がやってきて、周帝国を作ったと見たい。
ついで鉄を作る能力を持った民族がやってきて、この大陸の農業生産を飛躍させ、新興地主の乱立する乱世の中で、古代的生産社会が崩された。
ついで西方に発生した遊牧民文明が東に移って、中国大陸の周辺を大きくとりかこむが、これらとは別に長江(揚子江)水系にあって稲作を起こした民族が大陸の文明に多様性を与えてゆく。
周史の騎馬民族が、古代中原の人々に動物の利用法を教えた。たとえば車戦しか知らなかった中原の文化に対し、じかに馬の背に騎って人馬一体で運動する方法を教え、革靴を教え、軍装としてレインコート風の上着とズボンを教え、また肉の貯蔵法や食い方を教えた。
例えば、「羌(きょう)」という民族が、今の中国領シルクロードあたりに牧畜していて、次第に中原の文化を身につけた。
孔子が儒教の範とした周という古代王朝も、その祖の一派は羌であったかと思われるし、中国大陸を最初に統一した秦もまたその祖は羌であったろうと考える方が自然である。
秦のあと、漢が興る。漢は、劉邦(紀元前247-同195)をかつぐことで興された。劉邦の生地、江蘇省沛県は、稲作圏の北限でありつつも、麦作圏の南限でもあって、いわば両文化が混淆している地帯であった。
長江流域の稲作圏は、当時楚と呼ばれた。楚を代表する項羽(紀元前232-同202)は、秦を倒すと、邪魔者の劉邦を遠く漢中へやってそこに封じた。
「漢中」と言う地名が今でもある。峡西省南部の山間の小さな野で、蜀(四川省)へ登って行く桟道の出発点である。
漢中の「漢」が、この大陸の普遍的な文化にくるまれているすべての人々をさす民族呼称にもなるのである。
漢中からよじのぼる蜀という広大な天地は、春秋・戦国のころまでは、漢民族圏ではなかった。漢民族にとって全く異民族の地だが、農耕は営まれていた。
それどころか、おそらく中国における古代稲作のふるい展開地のひとつであったろうし、その担い手は、今も四川省に多く住む古代タイ語族系の人々だったに相違ない。
その南に接する雲南省になると、完全に中国の版図に組み入れられたのは、14世紀、漢民族にとって異民族王朝である元の時であった。
元の武力とその異常な征服欲を持ってしなければ、この南蛮の地が征せられなかった。というよりは、わざわざ長征軍を送るなどという酔狂なことを思い立つ王朝はなかったのであろう。
雲南省には、いまなお7百万人の少数民族が住んでいる。その生産や暮らし方という伝統文化はどこか日本に似ていて、ときに縄文文化の一派はこの地方とどこかでつながっていたのではないかという想像もなされる。
そのくせ、考古学をふくめた文化人類学の雲南研究が、日中ともに組織的に行われているとは言いがたい。
私どもは江南の旅を終えたあと、上海の飛行場へゆき、まず蜀の地へゆくことにした。