読書逍遥第287回『長江・夢紀行』(その7) さだまさし中国写真集 1983年発行
『長江・夢紀行』(その7) さだまさし中国写真集 1983年発行
日本の女性の活躍を期待している
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[女性たちの楽しさ、朗らかさ、美しさ、逞しさ]
中国は男女が完全に平等な国やむしろ女性上位の国だと言われるだけあって、この国の女性は本当によく働きます。
男よりも働き、男以上の成果を示す女性も少なくは無いのです。無論、精神労働頭脳労働のみではなく、肉体労働の分野でもそうなのです。
こんな仕事を女にさせるのは酷だなどと言って、我々は日本の女性は悪い意味で、甘やかし、いや、むしろ差別してはいないだろうか、と、そんなことを考えさせるほどよく働くのです。
中国女性は、仕事のあらゆる分野で、男性と完全に平等な仕事をこなすから、正当なセリフを吐くことができるのです。
それに比べ、日本の女性上位論者は、自分の肉体についてはあまり触れたがらない。自分の体が男性と同等、もしくはそれ以上の肉体労働をすることができるかどうか、などということについては全く考えようとはしない。
そして男が肉体労働について話すたびに、その種の女性は、それは詭弁だ。何も肉体労働だけが労働ではないと言うような言い方をするのですが、僕はその方がもっと詭弁だと思うのです。
現に、中国の女性たちは、男以上に働き、男より強い意見を述べ、しっかりとした生き方を身に付けているのです。日本の女性に同じことがなぜできないのでしょうか?
むしろ、今の日本の女性権拡張論者の一部には、自分が女であるということを利用して、男の心の隙をついて、うまく立ち回ろうとする女性が多いように思えて仕方ありません。
僕はそういう種類の女性を見るたびに、なんだかムカムカしてしまうのです。
男は本気で女を殴れない。それがわかっているから、どんな無理なことでも、泣いたり喚いたりしながら通そうとする女がいる。それを利用して自分のわがままを押し通そうとする。そんな女を僕は女性として認めたくは無いのです。
こんなことを書くと、そのような筋の方々からやり玉にあげられそうですが、現実に中国で、男以上に重労働も、精神労働も黙々とこなしている女性たちの姿を見ると、そんなふうにも言いたくなってしまうのです。
男だ女だ、という区別以前に、働く中国女性の姿には、人間としての尊厳が感じられたのです。
女性が強くなると言うことではなく、男も女も同じ人間として対等に頑張るということの方が大切なのではないでしょうか。
女性が不当に弾圧されているとか、差別されているということに反対するのは、決して間違いではありません。そのことに僕は異議を唱えているのではありません。
ただそういう運動をしている人たちの中の一部の行動に、すごくずるさを感じるから、腹が立つのです。
中国の女性たちの権利は、彼女たちがコツコツ自分たちの力で、その手で勝ち取ったものです。マスコミなどに訴えて、男の心の隙をついて奪った権利とは違うのです。
本当に中国では男よりも頼りになる女性が多いのです。これはこの旅で、僕が実感したことだから絶対に間違いはありません。
何やら興奮で筆が走り、つい日本女性への(一部のです。もちろん)批判ばかりやってしまって、肝心の中国女性の美しさについてはそっちのけになってしまいました。お詫びして話をもとに戻させていただきます。
中国の女性は、現在はほとんど化粧をしておりません。化粧品も、ないことはないけれど、日本のように過剰に出回っているわけではないので、街で、化粧した女性に合うなんてことは、本当にまれです。
そういう女性はまず俳優や女子踊り子さん、歌手などの化粧をする必要のある(?)職業を持った人だと思って差し支えないでしょう。
化粧をしないということは、外見を女の武器として用いない、ということです。やはり人間としてまず能力を見て欲しいということなのでしょう。
僕が見た限りでは、スタイルだって日本女性よりずっと上のようです。実に美しいスタイルをしていますけれど、それをひけらかさない。
モラルの差もありましょうが、中国の人たちは自分の体をスリムな服で包むことはしません。
化粧はしないけれど、中国女性は本当に美しい。僕も成都の西南民族学院を訪れた時は、少数民族の女子学生たちが大歓迎をしてくれましたが、この女性たちの美しさもまた素顔の美しさでした。
それまで出会った漢民族の女性たちとはまた違った、異国的な美しさをそれぞれみんな持っていました。
中国の女性は、健気だと、僕は思います。人生に対して、強いけれども健気だと思うのです。
男であろうと女であろうと、生きるということに健気な人が、僕は好きです。だから中国女性は、本当に美しく僕には見えたのです。