読書逍遥第283回『長江・夢紀行』(その3)さだまさし中国写真集 1983年発行
『長江・夢紀行』(その3)さだまさし中国写真集 1983年発行
[老人の皺]
中国ではどこで会った老人でも、その指先の皺、腕の皺、足の皺、そんなものを見ていると、僕はそこに必ず、中国の人たちの人生、それのひとつの典型を見つけたような気になったものです。
自分の手で、自分の人生を、懸命に、力づくで切り拓いてきた年寄りたちの、体に刻み込まれている皺は、精神力だけを頼りにして生き抜いている現代の日本人の皺とは、本質的に違っているだろう。
僕はそう思うのです。
[物の考え方 日本と中国との違い]
確かに顔形も髪の色も、体格も非常によく似てはいるけれども、やはり、彼らは中国人であり、我々は日本人なのです。
全然違います。考え方そのものが違うのです。そこを我々は錯覚しているのではないでしょうか。
外形がよく似ているから、考え方も似ているはずだ。よく似ているはずなのに、我々とまるで違ったことをする。それは彼らが、まだ我々の水準に達していないせいなのだ。そんな風に、我々は中国の人たちを見ていることはないでしょうか?
そういう判断の仕方、これは大いに間違っています。彼らに言わせれば、我々の方が、彼らの域に達していないのです。
我々は島国に生まれて島国に育ったから、国境というものを体で知りません。違う民族に支配された経験も、ある特殊な一時期を除けばまぁないと言って良いでしょう。そういった環境というものが、やはり我々の考え方を、かなりの度合いで規制してると思われます
無風状態のままで、いかにうまく生きるか、いかにその無風状態を長く持続させるか、そんなことにのみ、我々は幼い頃から気を使いすぎてきたような気がします。だから一種のなれ合い、ナァナァのもたれ合い、といった部分が必ず出てくるのです。
それは仕事の面でもはっきりしていて、例えば、我々は駆け引きをします。もちろん中国人だって欧米人だって駆け引きをしますが、その仕方が問題なのです。
[子供たちの楽しさ、朗らかさ]
中国で出会った子供たちの目、僕が今まで見たものの中での最も美しいものの一つに数えられるのではないかな。本当にキラキラと星のように輝いていたんですよ。
好奇心がとても強いのです。
僕らに出会うと、もう何でも覗き込んで、この人たちは何を考えているのだろう、何をしようとしてるのだろう、持っているものは何なのだろう、何を持ってきたのかしら、何を奪っていってしまうのかしら。
もう体全部を好奇心にして、それを瞳いっぱいで表現して僕らを見つめるのです。
そんな子供たちの目に最初に出会ったとき、僕は何か、もう遠い昔に忘れてしまっていたものを、ふっと思い出したような、そんな優しく懐かしい気持ちにさせられたのです。
そう僕らの子供のころを、中国の子供たちは思い出させてくれたのです。そうだったな。僕は、子供たちの様子を眺めては、何度もそんな気持ちを確かめていたのです。
世の中の進歩に合わせて子供の感覚も変わり、本物そっくりの機関銃でなければ満足しない子供たちが増えてしまったのです。何をして遊ぶといったって、仲間同士で遊びを考えるのではなく、100円玉をたくさん持って、ゲームセンターへ出かけるのです。そんなことが、子供たちの感性というものを少しずつだけれど確実に、変えていってしまっているのでしょう。
そんなふうに、自分の周りを見渡して、淋しい気分になっていた僕にとって、だから中国の子供たちは鮮烈だったのです。
道路にチョークで模様を描いて、ケンケン跳びをして遊んでいました。棒切れを振り回して騒いでいました。つぎのあたった水着で、楽しそうに泳いでいました。そしてあの好奇心に満ちた、覗き込むのような目を、僕は決して忘れないのです。