読書逍遥第278回『中国・江南のみち』(その8) 司馬遼太郎著
『中国・江南のみち』(その8) 司馬遼太郎著
今回は、「寧波と日本との関係」
紹興から寧波ニンポー(当時明州メイシュー)へ
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私にとって、このたびの中国の旅の目的は寧波を見ることであった。
この古い街と港の匂いを嗅げればいい。海も見たい。さらに運さえよければ、ジャンク船を見たかった。
寧波・寧波港は日本歴史と極めて深い関係を持っている。
寧波は、唐・宋のころ、「明州(めいしゅう)」と呼ばれていた。奈良朝の文化が、遣唐使船による文物吸収によって出来上がったことはいうまでもない。
世界的な都市文明であった長安や仏教の諸大寺の文化を導入すべく波濤を越えてゆくのだが、命を賭してゆくだけの価値は大きかった。
当時の長安自体が中国史上、特異とさえいえるほどに西方に戸口をひらききった文化的受容力を持っていたために、日本人としては長安にさえ行けば、世界の諸文明をすくいあげることができた。
中国在来のもの以上に、インドの思想、ペルシャの工芸品などが、草深い極東の島に住むひとびとにとっていかに大きな衝撃であったかは、今なおそれが文化的遺伝となって日本人をシルクロード好きにしていることでもわかる。
遣唐使派遣は、第一回の630年出発から終了まで264年間、回数でいえば14回、数え方によっては20回近く行われた。
当時の日本人は、航洋の民ではなかった。大海をゆく航海法を知らず、それに耐えうる構造船の造船法を知らない。ともかくも、たらいを大きくしたような構造の船で、風浪にもまれつつ往ったのである。
河岸の河港の岸に立つと、血のさわぎを覚えざるを得ない。
奈良朝末に生まれて平安初期に入唐した最澄や空海もこの河港を知っていたし、平安末から鎌倉期にかけて若い僧の入宋留学が流行したころ、日本臨済宗の祖になった栄西(1141-1215)もこの河港に上陸し、私どもが立っている場所の土を踏んだ。