読書逍遥第277回読書逍遥『中国・江南のみち』(その7) 司馬遼太郎著
『中国・江南のみち』(その7) 司馬遼太郎著
江南の旅はつづく。
司馬遼太郎の記述は、大きなピクチャーのなかに個別の事柄を位置付けてくれているので裨益することが多い
散りばめてある風景描写は、心に残るほど印象的だ
今回は古代中国の夏・殷などの世界のこと
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紹興から寧波ニンポー(明州)へ
「会稽山(かいけいざん)」
「会稽ハ会計ナリ」と言う解釈は『史記』の昔からある。銭勘定のことを会計と言う例は『孟子』にあるから、言葉としては古い。会稽も会計も、もともと「人を集めて彼らの功績を計ること」で、論功行賞の意味であった。
中国の神話上の聖主は、堯・舜であり、ついで禹と言うことになっている。
禹は旬に仕えて、治水に功があった。やがて舜から王位を禅譲されて王になる。禹以後、王位は世襲になり、多分に伝説的な夏(か)王朝がつづく。
夏はむろん、それに続く殷王朝も、古代人が伝説として作った架空の王朝とされてきた。
ところが殷(ほぼ紀元前1600-同1028)が実在したことは、今世紀のはじめ以来、発掘され続けている殷代遺跡によって明らかにされた。
「夏も実在したのではないか」という期待が、中国の考古学会の一部に密かに息づいているように思われる。むろん夏王朝の実在は、考古学的には片鱗も実証されていない。まして、夏の始祖である禹が実在の人物だったかということになると、まことに怪しい。
いうまでもなく、中国文明は、黄河流域にはじまった。南の長江(揚子江)流域はそれより遅れて発展し、後々まで遅れた地域とされたというのは、定説に近い。
しかし、神話の上では、舜の行動は中原にとどまっていない。はるかに長江を渡って死んでいるし、禹またこの長江下流平野である浙江省の会稽山までやってきて、ここで死んだ。神話の人物の活動領域は、じつに広いのである。
古代中国は、諸民族のさまざまな言語と文化を持って混在していた世界であった。彼らは堯・舜・禹の神話を創りだしたころから、大陸のひろさが、すでに頭にあったのではないか。
さらに想像すれば、神としての堯・舜・禹は、それぞれ別個の民族の神々で、やがて一系列に大構成され、時を経て挿話なども付加されていったのかもしれない。
私どもは紹興の町を「稽山橋」という橋を渡って、城外の野に出た。
野のいたるところで、水が光っている。運河や灌漑用水路は銀線のようだし、それら流水が溜まって池になっているのは、洪水のとき小さな遊水池として役立つのだろう。
水田地帯だけに、日本の農村に似て家々がかたまっている。村ごとに老いた樹が、村の古びをあらわすように、青い空を飾っていた。