読書逍遥

読書逍遥第274回読書逍遥『中国・江南のみち』(その4) 司馬遼太郎著

冨田鋼一郎

『中国・江南のみち』(その4) 司馬遼太郎著

南宋の都、杭州。
唐との比較で、南宋時代を概括する

[杭州の西湖]

湖が美しい。杭州の街は、花と水の公園につつまれた町だと聞いていたが、なるほどそのようであった。

マルコポーロが「キンサイ」と呼んだ杭州(当時臨安)の町が、南宋の都であり続けたことは、150年にわずか1年欠ける。

都市としての豪華は、偶然のものであった。ただ後世の我々にとって、盛唐の長安に感ずるような夢はない。

長安の都市文化には、最初の大規模な西方との接触・交流による異風さと、理屈を超えた華やぎがあった。

それからみると、南宋150年の文化は、ひと口で言いがたい。知的で、理屈っぽく、行政家・学者たちは、学問の流派による派閥抗争と論争で明け暮れているかと思うと、一方では、商業がある。商品経済の国内での充実が、やがて貿易にむかい、爆竹が弾けるように賑わっていた。

唐との相違は、国力の弱さである。
華北に展開する金という異様な国号を持つ異民族国家からの圧迫とそれについての危機感は、南宋の知識人の精神を、前代とは違う形で変形させた。宋代において初めて強烈なかたちでの漢民族ナショナリズムが成立する。

他方において、ナショナリズムを超えた商品経済の盛行がある。
この二大状況が、ひとつの圧力釜の中で煮えたぎっているような時代だった。

「宋学」という、高度な理屈っぽい思考法が生まれて成長している一方、人の知恵と働きが諸道具、諸物品の新工風と製造と販売に向けられるという形而下的な運動が展開している。唐代にはこういう状況はない。

このことは、士大夫階級をも含めて、人間の精神も微妙に変化させた。
個の存在や個の自由を生んだとまでは言いがたいにせよ、人間をカズノコの一粒として見るのではなく、個別的に認識しようとする衝動や痕跡がふんだんに見られるようになった。

南宋人は、唐朝の人よりもモダンであった。
そのことは、書を見てもわかる。南宋人の書は、王羲之、顔真卿といった「書聖」のまねごとではなく、平然と個性を出すようになった。このことは、商品経済の盛行と無縁ではない。

そのくせ、一方において多分に議論倒れながら、強烈なナショナリズムが噴出した。

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ABOUT ME
冨田鋼一郎
冨田鋼一郎
文芸・文化・教育研究家
日本の金融機関勤務後、10年間「学ぶこと、働くこと、生きること」についての講義で大学の教壇に立つ。

各地で「社会と自分」に関するテーマやライフワークの「夏目漱石」「俳諧」「渡辺崋山」などの講演活動を行う。

著書
『偉大なる美しい誤解 漱石に学ぶ生き方のヒント』(郁朋社2018)
『蕪村と崋山 小春に遊ぶ蝶たち』(郁朋社2019)
『四明から蕪村へ』(郁朋社2021)
『論考】蕪村・月居 師弟合作「紫陽花図」について』(Kindle)
『花影東に〜蕪村絵画「渡月橋図」の謎に迫る』(Kindle)
『真の大丈夫 私にとっての漱石さん』(Kindle)
『渡辺崋山 淡彩紀行『目黒詣』』(Kindle)
『夢ハ何々(なぞなぞ)』(Kindle)
『新説 「蕪」とはなにか』(Kindle)
『漱石さんの見る21世紀』(Kindle)
『徹底鑑賞『吾輩は猫である』』(Kindle)
『漱石さんにみる良い師、良い友とは』(Kindle)
『漱石さん詞華集(アンソロジー)』(Kindle)
『曳馬野(ひくまの)の萩』(Kindle)
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