第41回「知の旅シリーズ7」世界責任編集・森本哲郎
冨田鋼一郎
有秋小春
「百済(くだら)」について
日本への影響という点で、「百済」の果たした役割は無視できない。日本の精神文化の源は、「百済」を介して「江南(長江の南)」から来たといってもいいからだ。
日本において、漢字の読み方がいまだに「呉音」と「漢音」が混在している原因も「百済」「江南」にある。
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百済(ひゃくさい)というのは、3世紀から7世紀までわずか300年存続した国ながら、古代日本にとって″文明の種まき機″のような役割を果たし、滅亡のときは日本がその大量の遺民を受け入れた。
百済を日本で”くだら”というのは、「クン・ナラ」(大いなる国)という朝鮮語から来ているといわれる。
百済人が倭人にそういったのか、倭人が百済の文化の高さを仰慕してそういったのか、いずれにせよ、この言葉が日本語に定着したこと自体が面白い。百済の「大いなる」は、その源泉がある。六朝文化である。
黄海に海岸線を持つ百済は、船を浮かべれば、中国の山東半島にたどりつくことが容易であった。
百済という国の不思議さは、華北を占拠している非漢民族の諸勢力に親しまず、長江の南まで後退した漢民族の六朝に接し続けたことである。漢文明への憧れが固有に強かったためと思える。
六朝文化の本質は、秦・漢以後の中国では例外的なほどに貴族文化であることだった。遊惰の風を持ち、漢民族には珍しく政治をもって至上価値とする精神が乏しかった。
むしろ政治を野暮とし、「風流」を重んじた。風流という語と思想と態度が、やがて百済経由で日本に定着する。
風流至上、政治は野暮という六朝の気分はのちのち平安朝の文化を染め上げ、今日なお日本人の政治観に投影しているのではないか。
○風流の初や奥の田植え唄 芭蕉