読書逍遥第270回『嵯峨散歩、仙台・石巻』(その9最後)
読書逍遥第270回『嵯峨散歩、仙台・石巻』(その9最後)
奥羽地方を居ながらにして旅することができた。
[石巻の立地と海に入る北上川]
最後に石巻を訪れる。
北上川は河口付近で大きく湾曲して、リアス式海岸の追波湾(おつぱわん)で太平洋に流れ込む。ここは船舶を泊めにくい。南から北上する船舶は金華山沖の難所を通過する必要もある。
この北上川の「し」字型を、「ト」の字型に開鑿して南流させ石巻湾に落とした。石巻の湊としての発展はこのような経緯がある。
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牡鹿半島が仙台湾を東から抱いている。小さくいえば、石巻湾を抱いているのである。その石巻の野に北上川が北から南へ貫流していて、そのまま河口を南に開き、帆船時代には絶好の河口港を形成していた。
江戸期、石巻湊の存在は、輝かしいものだった。仙台藩領の米は主としてここから積み出され、また諸国の船舶がここに帰港し、奥州第一の商港とされた。
江戸期は、武士の時代として捉えられるよりも、商品経済の隆盛期として捉える方がわかりやすい
武家の豪儀さの象徴として葵の紋章があったり、薩摩島津家の丸に十の字の紋章があったりするが、商品経済の場合、商港の名が似たような印象を世間にあたえていた。
たとえば、奥羽の場合、最上川河口の出羽酒田湊(山形県)や、秋田城下の外港の土崎湊、また能代湊、あるいは十三湊、さらにいうと、南部八戸城下の外港などにも、地名をとなえるだけでいかにも殷賑なにぎわい感じさせたが、石巻はつきぬけていて、西国のひとびとにも圧倒的な印象をあたえ続けた。
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石巻という場所は、多賀城址から松島湾頭という閑寂な山海を見慣れてきただけに、繁華な市といえる石巻を眼下に見て、驚きをおぼえたのに違いない。行間に、そういう感情が溢れている。
「数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈(かまど)の煙立ちつゞけたり。思ひかけず斯(かか)る所にもきたれるかなと、、」