読書逍遥第269回『嵯峨散歩、仙台・石巻』(その8)
読書逍遥第269回『嵯峨散歩、仙台・石巻』(その8)
[松島のこと]
芭蕉は塩竈から小舟に乗って松島の島々をめぐっている。冒頭、「そもそもことふりにたれど」と書きはじめる。松島の美は言いふるされたことだが、というのである。
「松嶋は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の内三里、浙江の潮をたヽふ。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽む」
古来、日本の名勝は歌によってつくられた。そこが詠まれ続けているうちに、土地そのものが歌枕になる。
松島も塩竈も、宮城野も、王朝のころ、すでに歌枕第一等の地で、いわば詩による霊気を帯びていた。
その霊気を感じなければ、歌詠みとはいえない。はるかな後代に生まれた芭蕉もまた、中世の歌枕の地を踏むべく、聖地巡礼のようにして白河の関を越えるのである。
越える時、「風流の初や奥の田植歌」という句をつくって、『おくのほそ道』に挿入したのは、美の聖地へゆく覚悟を示したものである。
このあと、芭蕉は臨済宗の大刹瑞巌寺へ行っている。政宗が京の工匠たちを呼んで桃山ふうに仕立てたた建築だけに、華麗なものである。
最澄の弟子円仁(794-864)の開基であるという。円仁は下野の国(栃木県)の人であった。晩年、関東・奥州に巡錫し、さかんに寺院を建立したといわれる。
彼の開基とする寺は、かくれもない名刹が多い。平泉の中尊寺、同じく毛越寺(もうつじ)、出羽の立石寺、それにこの松島の瑞巌寺(当時は円福寺)などである。後世、以上のことごとくを芭蕉が尋ねた。
夏草や兵どもが夢の後
これは毛越寺においてである。
中尊寺では、
五月雨の降のこしてや光堂
と、詠み、立石寺では、
閑さや岩にしみ入蝉の声
というように、芭蕉一代の名句が奥羽における三つの古刹でできている。
繰り返し惜しまれるのは、松島においても瑞巌寺でも、芭蕉は句をつくらなかったことである。