読書逍遥第131回 『偉大なる美しい誤解〜漱石に学ぶ生き方のヒント〜』冨田鋼一郎著 2018年刊
冨田鋼一郎
有秋小春
仙台、多賀城址、塩竈、松島の位置関係がはっきりした。
[塩竈のこと]
塩釜は、多賀城遺跡の東北にあって、ごく近い。ゆくほどに海が近くなっていゆく。海とは、松島湾のことである。松島湾がその南西端においてさらに鋭く湾入している。それが塩釜湾(千賀ノ浦)である。
[製塩について]
奈良朝の頃、塩釜は製塩の地として四方に知られていた。
製塩地というのは、東西の古代史において、存在そのものが力を持っていた。例えば、中国史を見る場合、乱が起こると、英雄豪傑はいち早く岩塩の出る土地をおさえて支配力を増した、という見方がある。
古代ヨーロッパ史を、塩の交易史で捉えると面白いらしい。人類は「交易」というものを、塩の売買によってはじめた。アジアでもヨーロッパでも、塩の産地は交易のために人口が多かった。
日本はまわりが海である。といっても、塩汲みをして物を煮たきできるのは海岸に住む人たちだけで、内陸の人たちは塩を得なければどうにもならなかった。このため、古代から製塩は行われていた。
ただし塩田を用いた天日(てんぴ)製塩ではない。塩田方式は奈良朝・平安朝から始まっているものの、晴天の多い瀬戸内海沿岸のほかは、いくつも適地があったわけではない。多くは、海水を煮つめる方法をとっていた。
縄文以来、そうだった。土器に海水を入れて煮つめた。浦の者が出来上がった塩を山へ持ってゆき、山の者と山の物産を交換したのに違いない。
古代日本の製塩法で際立っていたのは、塩分を濃くさせるために海藻を用いたことであった。古代における塩釜の地でもこのやり方だった。この地は、文字による歴史以前は塩で栄えていたかのようである。
古歌に、しきりに「藻塩(もしお)焼く」ということばが出てくる。