第50回『もう愛の唄なんて詠えない』さだまさしエッセイ
冨田鋼一郎
有秋小春
[千歳古人の心 多賀城のこと]
芭蕉や蕪村にとっても、奥州多賀城は辺境のあこがれの象徴だったはずだ。
「自然が人文に昇華する作用をこの奥州が果たした。多賀城そのものが、詩である」。
司馬遼太郎の得意な詩的な表現だ。
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多賀城は、八世紀の初め、北の蝦夷(えみし)に対する防柵として出現した。さらには奥州の鎮所として機能した。ついには、「遠(とお)の朝廷(みかど)」としての威容をもつにいたった。
奥州にあっては都のミニアチュアであり、都にあっては辺境への憧れの象徴だった。
奈良朝・平安朝の都人たちは、奥州の山河を愛し、その草木まで知識として知っていた。宮城野の萩で象徴されるように、草の名さえ詩になった。
このようにして、多賀城の周りの山河は、畿内以外における第一の歌の名所として育ってゆく。自然が人文に昇華する作用をこの奥州が果たした。多賀城そのものが、詩であるといえる。
芭蕉の多賀城の感動は「おくのほそ道」によって知られる。
「爰に至りて疑なき千歳の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれて泪も落るばかり也」