読書逍遥第266回『嵯峨散歩、仙台・石巻』(その5) 司馬遼太郎著
読書逍遥第266回『嵯峨散歩、仙台・石巻』(その5) 司馬遼太郎著
[長岡半太郎(1965-1950)のこと]
明治の知識人たちは、東洋人として、欧米人に対して人種的な劣等感を抱いていたことを、長岡半太郎を通して紹介している。
夏目漱石も、講演録「現代日本の開化」において、どうすればいいかと訊かれても「涙をのんですべってゆかねばならない」と語っているのと共通する。
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明治期に成人した科学者は、先進国を追うのが精一杯で、独創的な人物は少なかった。長岡繁太郎などは独創家の最初だったろう。
彼の頭脳がいかに他と異なっていたかという事は、エジソンと同様、小学校を学業のために落第したと言うユーモラスな例でも察しうる。
長岡の若いころの時代的位置を知るために駄足を付すと、彼の大学予備門の入学が、明治14年(1881)で、正岡子規や夏目漱石に3年先立っている。
明治の知識人の愛すべき病弊は、欧米人に対する骨髄までの劣等感であった。それも素朴に、東洋人(特に黄色人種)先天的に頭が悪いと多くが信じ、信じざるを得ないことで苦しんでいた。珍説まであり、日本人は木の家に住んでいるからアタマが悪く、欧米人は石の家に住んでいるからアタマがいいんだと大真面目にとなえる者さえいた。
長岡より18年後輩の志賀直哉ですら、右の明治人のこの意識の末裔だったかもしれない。彼は太平洋戦争の敗戦後、いっそ日本語を止めて、フランス語にしたらどうだろうと漏らした。いわば、木の家を日本語に置き換え、石の家をフランス語に置き換えただけの論法と思っていい。
これによって志賀直哉の知性を疑うべきでなく、明治人の共有していた、ほとんどノイローゼとも言うべきものを、かれも世代的末端として継承していたことを知るべきである。
長岡についていい本がある。板倉聖宣氏の『長岡半太郎』である。
彼は少年のころ家学ともいうべき漢学が苦手で、大学予備門の頃もこの学課に苦しんだ。そのくせ、大学に進むにあたって物理学をやるか、漢学(東洋史)をやってみようか、と考え込んだという。
このあたりに明治人の輝かしい(としか言いようのない)、共有ノイローゼがある。
東洋人には自然科学において独創的なことをやる能力があるか、というのが長岡の悩みだった。その有無をみるには東洋史において検証する以外にない。だから東洋史をやろうかと思ったのである。このあたりに明治人の規模の大きさを感じていい。
結局、能力はあるだろうと思って、かれは物理学をえらぶ。彼がその時期に漢籍にあたったかどうかわからないが、中国人は紀元前において太陽黒点(サン・スポット)を観測し、また磁針が南北を示すことを発見したということを、長岡はのちに指摘している。
さらに長岡は、いう。
東洋人はむかし大きな成果をあげたが、それを発展させえなかった。それは歴史の罪であって、東洋人の能力の問題ではない。
もし古代のあの大きな能力が、そのまま系統的に攻究されていたとすれば、「必ずしも欧米人の尻馬にのる不体裁なことばかり」しなくてもすんだ、という。
それはともかくとして長岡は、「周漢時代の断片的な記録は私に慰安を与え」たというのである。明治人を理解する場合、長岡のこのかなしみを一要素として入れねば十分ではない。
長岡は独創のみを重んじた。