読書逍遥第263回『嵯峨散歩、仙台・石巻』(その2) 司馬遼太郎著
『嵯峨散歩、仙台・石巻』(その2) 司馬遼太郎著
「仙台・石巻」に移る
石巻、松島・瑞巌寺、塩竈、多賀城、貞山堀、仙台をめぐる
仙台藩を支える米俵
対して
庄内藩を支えるのは紅花
[仙台藩は米売り一本槍]
仙台平野という肥沃な穀倉地帯のおかげ 仙台藩の表高は六十二万石だが、実際の穫れ高は百万石をゆうに越えた。余剰米を江戸送りし、巨大な米穀商ともいうべき藩だった。
[庄内藩の紅花(べにばな)]
「私は、近代以前においては、商品経済の有無で、人情から文化まで違ったものになってくる、と考えている。
商品経済がさかんであれば、人々の思考法も多様になり、発想が単一的でなくなるばかりか、斬新な思想や発明も生まれる。
花がアザミに似たこの紅(エンジ)をとる植物は、遠いオリエントが、原産地だったとされるが、日本での最適地が、意外にも出羽村山地方(山形県)であることがおもしろい。
江戸期、さかんに生産された。出羽の農家が栽培し、花を乾燥させ、圧縮して餅状にかためる。これだけではむろん完全商品ではない。はるかに京へゆく。
餅状紅花は最上川を川船に積まれて港に出、北前船に積み替えられて大阪まで航海する。さらに淀川を川船でさかのぼり、京において完全商品として精製されるのである。
口紅用、染色用、食品着色用、薬用など、用途によって製法が異なっていて、その技術と流通は京都がにぎわっていた。
一方、栽培地の出羽国では、紅花づくりのために金肥(きんぴ)が必要だった。金肥は、蝦夷地や千島でとれたニシンなどで、これらはいったん大阪の靭(うつぼ)の肥料問屋街にはこばれ、ふたたび北前(日本海)をへて出羽へゆき、村山地方の畑の中に入るのである。
このように、江戸の商品の環流はまことに壮大なものだった。このおかげで、江戸文化の均質化が行われ、また他のアジアとはちがった日本人の意識をつくったと私は思っている。
また、東北(奥羽)でも出羽の庄内平野に、京都文化が濃厚に定着したも、紅花で代表される商品のうごきの結果といっていい。
村上さん(同行の人)は、紅花が生んだ文化の例として、山形県のある旧家で見たひな人形の話をされた。ついでながら3月3日の節句のひな人形は、むろん京都文化の所産である。
「それが、京都のひな人形に比べて、ケタ外れにがらが大きいんです」
大きいばかりか、写実的でもある。それらが節句になると座敷いっぱいに飾られるのだが、一人で見るとこわくなるほどのものだ、という。出羽のその旧家は、紅花の力によって京都文化をたっぷり受容したが、受容だけでなく、このひな人形のように独自の文化をもつくりあげている。
そういうことは、仙台藩では少なかった。米穀一本であるため、他の諸商品のゆうに、文化の環流が期待しにくい。