読書逍遥第234回 『フェルメールの帽子』2008 原題 Vermeer's Hut ティモシー・ブルック著
冨田鋼一郎
有秋小春
若いころの蕪村の画号のひとつに「四明(しめい)」がある。比叡山の西の山頂の四明岳(しめいがたけ標高 839m)から取ったものだ。
関東遊歴時代の蕪村は、自分の出自は関西であることを明示したかったのだろう。
この記載があるかと本書を探ったが、見つからなかった。
代わりに、最澄と子規についての記述を見つけた。
二人とも”自分の人生の主題について電流に打たれ続けるような生き方”だったという。
著者の好みの一端を窺うことができた。
☆☆☆☆
最澄(767-822)の書は、空海を別格として、同時代人では橘逸勢(たちばなのはやなり)、嵯峨天皇とならべられる。
が、後者にはやや書芸意識がみられるが、最澄にはそれがなく、文章を書く必要上やむなく文字を書くという自然さがうかがわれる。
私はそういう意味で、明治の正岡子規の書が好きが、その系列の遠い先蹤に最澄の書があり、しかも子規は遠く最澄の書におよばない。
子規と最澄には似たところが多い。
どちらも物事の創始者でありながら政治性を持たなかったこと、自分の人生の主題について電流に打たれ続けるような生き方でみじかく生き、しかもその果実を得ることなく死に、世俗的には門流の人々が栄えたこと、などである。
書のにおいが似るというのは、偶然ではないかもしれない。