読書逍遥第256回『図書館には人がいないほうがいい』(その2) 内田樹著
『図書館には人がいないほうがいい』(その2) 内田樹著
次々と摘要したい個所が見つかる。心に留めるために書き留めた
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今の学校は子供たちにテストを課して、その成績で「格付け」する評価機関のようなところになっていますね。
でも僕は子供たちを査定して、評価して、格付けするというのは、学校教育の目的ではないと思うんです。
学校は、本来、子供たちの成熟を支援する場だと思うのです。
子供というのは「なんだかよくわからないもの」なんです。それでいいんです。そこから始めるべきなんです。
子どもたちを枠にはめて、同じ課題を与えて、その成果で格付けするというのは、アプローチとして間違っている。
渡辺京ニさんの『逝きし世の面影』には、幕末に日本を訪れた外国人たちが、日本で子どもたちが大切にされているのを見て驚いたと言う記述がありました。
でも、これは日本人は子どもを可愛がってるということとはちょっと違うと思うんです。
可愛がっているんじゃなくて、「まだこの世の規則を適用してはいけない別枠の存在」として敬していたということだと思います。
中世以来伝統的にそうなんです。子どもは7歳位までは「異界」とつながる「聖なる存在」なんです。でもある程度の歳になると、そのつながりが切れてしまう。
アドレッセンス(青春期)の終わりというのは、異界とのつながりが切れてしまう年齢に達したと言うことなんです。そうやって人は「聖なるもの」から「俗なるもの」になる。
だから、「この世ならざるもの」とこの世を架橋するものには、基本的に童名をつけるという習慣がありますでしょう。
「酒呑童子」とか「茨城童子」とか。彼らはこの世の秩序には従わない。牛飼いもそうです。牛飼いというのは、その当時日本列島に居住する最大の獣である牛を御する者ですから、聖なる存在なわけです。だから、大人でも童形をして、童名を名乗った。
京童(きょうわらべ)もそうですね。あれは子どもじゃないんですよ。大の大人なんだけど「権力にまつろわぬ人たち」だから、子どもにカテゴライズされているのです。
蕪村筆「「黄初平仙人」
子どもの顔をしている仙人