読書逍遥第251回『街道をゆく 中国・びんのみち』(その5最後) 司馬遼太郎著
『街道をゆく 中国・びんのみち』(その5最後) 司馬遼太郎著
1984年、まだソビエト連邦があった時代の旅紀行である。
巻末に中国の少数民族問題の歴史的経緯に関する指摘があった。
地理的にも歴史的にも巨大な中国を理解するのは容易でない。
現在の中国の同化政策と新興ウイグル、チベット自治区などでの少数民族に対する人権問題とどうむすびつけて理解するのか。
漢字という表意文字が大きな国土をまとめる力をもっていたとの指摘も忘れてはいけない。
「中華」「夷狄」、、
☆☆☆
中国には五十いくつかの少数民族がいる。以下、話の歩度を緩めたい。
夏(か)についてである。夏が中国における最古の伝説的王朝である事は周知のことで、中国人はむかしから自らの文明を「華」と言ったり、「夏」とよんだりしている。夏王朝の遺跡はまだ発見されていないが、その実在は、中国でも日本(例えば内藤湖南)でも、疑われていない。夏もまたひとつの「民族」だったのである。
紀元前1700年ごろ、殷が夏を滅ぼして殷王朝を作ったが、殷もまた夏に対する「異民族」だった。
殷をほろぼして新王朝を立てた(紀元前1100年)周は、明らかに、中原よりずっと西北の牧草地に住んでいた民族である。ほろぼした殷民族の高い文化を継承し、文字まで相続した。漢族はそのようにして形成された。
今ひとつ、中国史を貫いているものは、北方や東北方の騎馬民族が、武力によって「華」と言う農業地帯に流入しては、中央・地方の制服王朝をつくりつづけたということである。かれらは征服してほどなくその固有の騎馬能力を失い、農耕文化を身につけ、やがて”漢族”として溶けてしまうということを繰り返した。溶けなかったのは、13世紀の元だけであった。
「華に参加すれば華だ」というおおらかな感覚こそ中国文明の核心をなすもので、つまりは人種論ではなく、文明論の国なのである。
ただ12世紀、華北がウラル・アルタイ語族である金王朝に占領されたとき、この伝統的感覚に異変が起こった。南へ押し付けられた宋王朝の思想家たちの間に、中国史上最初の民族主義が起こった。
朱子(1130から1200)が完成した宋学は、金という”異民族”を「夷」とし、攘(うちは)らうべきであるとし、「尊王攘夷」をとなえた。中国人が容器の古代的な大きさを失うのは、この時期からだといっていい。
ただ、新中国は、その器をとりもどした。「中国民族」という大きな概念をつくり、漢族はまたその一員であるとした。
その必要もあった。「危険」と考えていいのは、内陸部の少数民族よりも、長大な中ソ国境付近に住むさまざまな少数民族のほうではないかと思える。しかも国境線ほど少数民族がいて、同じ民族が国境のむこう(ソ連側)にもいるというのは、そらおそろしいほどのことである。かれらは同民族であるだけでなく、国籍は違ってもしばしば親類でさえありうる。
さらには、国境付近では、歴史的にはその民族の領土であったものを、中ソと言う近代国家が、国境線をもって截り裂いているのである。しかも国境線上にいるのは、13世紀にユーラシア大陸にわたる世界史上最大の帝国をつくったモンゴル族とか、8世紀にウイグル帝国を作ったウイグル人とか、あるいは数千年の文化を持ち、しかも同民族の国家を持つ朝鮮族とかいった歴史的な大民族なのである。
ソ連はこのこわさを感じ、スターリン政権の頃、中国東北地方に接するソ連側の朝鮮族を、遠く中央アジアのウズベク共和国に移住させた。いつ中国内部の朝鮮族に通じるかも知れぬという疑心暗鬼が、この非常識ともいうべき措置をとらせたといえないか。
中国も、苦心している。
一方に人口問題がある。もし無策でいれば、人口爆発が将来中国を圧しつぶしてしまうかもしれず、このための力を尽くして人口の抑制をはかっている。
しかし辺境の少数民族に対して、この抑制策を取れば、彼らは、「自分たちを滅ぼして抹殺してしまうつもりか」などと思うかもしれない。少なくともそういう扇動家が出る。このため、少数民族には結婚に年齢上の制限を加えていないと考えていい。またそういう配慮も余慶に、他の少数民族も浴しているとも考えられる。