読書逍遥第250回『街道をゆく 中国・びんのみち』(その4) 司馬遼太郎著
『街道をゆく 中国・びんのみち』(その4) 司馬遼太郎著
[14世紀から17世紀の明時代の特徴]
当時、福建省泉州(ザイトン)は、アレキサンドリアとともに、世界最大の海港である。
(その後、その座は厦門、福州に譲ることになる)
1290年、マルコポーロの大旅行は、この泉州を最後にしてベネチアに帰国、『東方見聞録』を著し、その名はヨーロッパに知られるようになる。
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中国史は、古代以来、近世まで福建省を度外視して進行した。明代になってようやくこの省から官僚や学者、あるいは名僧が輩出するが、省そのものが炸裂するような力を持つに至るのは明代、福建海賊の活動によってである。当時、沿岸ことごとくが海賊の巣といってよかった。
明は14世紀から17世紀までの王朝である。この王朝は、初期の永楽亭の頃を例外として、全体に政治的弾力性に欠け、どこか日かげのひからびた瓜のような印象を受ける。中国が世界史から大きく後退するのは、この王朝のせいだとさえいえる。
世界史は、明朝の14世紀から17世紀までに、近代への躍進の準備をした。
ヨーロッパにおいてはルネッサンスと大航海・大貿易時代が中心となって、知的好奇心が沸騰するのだが、明はその時代の宋・元においてヨーロッパに類似する兆候がありつつもそれを継承せず、むしろ歴史の河水をせき止めるようなことをした。
例えば明朝を特徴づけるものは、「海禁」である。明初(14世紀末)、法律をもって鎖国を打ち出し、「寸板モ下海ヲ許サズ」と厳命し、これが祖法となり、一定の朝貢貿易以外、一切の通商を許さなかった。
特に「行ってはいけない」という国十五国(日本も含まれる)を決め、また持ち出し禁止の商品を決めた。
この時期、日本は、室町期から徳川初期にあたる。ヨーロッパだけでなく、日本においても、こんにちを築いたのはまさにこの時期だった。
政治・社会面ではさかんに対流が行われて、下層の農民が大小の領主になり、また大名・小名ごとに”領国制”をとって、領主が農民の面倒を見るという日本史上最初ともいうべき原則と方法が確立された。
さらには室町以後、農業生産高はあがり続け、非農民が増えて芸術や芸能を生んだ。また日本全域を一つにする商品経済が構成され、平安・鎌倉とは別国であるかのように、知的・物質的好奇心が沸騰続けた。
明が特に「通倭ノ禁」というものをしばしば出したのは、ひとつには日本における人心の沸騰を危険なものとしてみたのだろう。そういう国に行って、沸騰病に感染すると、経済や政治の紊乱をひき起こして、明の人心が悪くなる。(今の中国政府も、そういう不満を持ってるかもしれない)