読書逍遥第243回 『だからあれほど言ったのに』内田樹著
『だからあれほど言ったのに』内田樹著
興味深い指摘に出会った
「学校教育とは、子供たちが連続的に別人になることを支援していくこと」
今だから内田樹氏の言わんとしていることはよくわかる
自分事として、書き留めて、心に刻んでみたい
良い教師とは、若者たちを無防備なイノセントな状態のまま自己刷新できる人として世に送り出すことのできる人
人として際限なく自己刷新していける人は稀なのかもしれない
今流行りの「リスキリング」の掛け声とは真逆なことだ
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「学ぶというのは別人になることである」(抜粋)
図書館とは、おのれの無知を可視化する装置である。おのれの無知を思い知らされたことで、足がすくむと言う経験と、この蔵書のうちの何万分の一でもいいからその中味を知りたいという学びの起動は、合わせて一つのものである。
無知というのは、単に知識が欠けているということではない。そうではなくて、無用の知識が頭に詰まっているせいで、新しい情報入力できない状態のことを「無知」と呼ぶのである。
あるトピックについて異常に詳しく、そのフレームの中では、様々な数値やデータをよどみなく語れるのだけれども、視点を換えてみるということが全くできない人がいる。そういう人のことを「無知」と呼ぶべきだろうと思う。
無知を「ジャンクな情報で頭がぎっしり詰まっていて、新しい入力が阻害されている状態」と定義すると、おのずから知的というのはどういうことがわかる。それは乾いたスポンジが水を吸うように、新しい知に対しての渇望に焼かれている状態のことである。
「学ぶ」ということを、容器の中に知識や情報を詰め込んでいくことだと考えている人が多い。でもそれは違う。
「学ぶ」というのは、容器そのものの形状がどんどん変化して、容積が変化して、機能が変化していくということである。入力があるたびに、容器そのものが別ものに変化していくことを「学ぶ」と言うのである。
学ぶことによって、人は語彙が変わり、表情が変わり、声が変わり、立ち居ふるまいが変わる。全てが変わるという人間観・教育観に私は同意する。
学校教育とは子供たちが連続的に別人になることを支援していくことである。私がそう考えている。
無知に甘んじ、無知に安住しようとする子どもたちを、自己刷新のプロセスに導くことが教師の仕事なのである。
無知に居ついた子どもたちをそこから解きほぐすのは、簡単な仕事ではない。子供たちが無知に居つくのは、ある意味、自己防衛のためだからである。
子供たちは「半分野生」だという話を前にした。その半分野生の子どもたちを、そっと人間の世界に導くのが教育の仕事である。
大人が無理矢理に子どもを野生から文明に引きずり込むと、子どもたちに深い精神外傷を残すことがある。子どもの成熟はあくまで子どもたち自身の発意や自己刷新でなければならない。
自己刷新というのは、自分がその中に棲みつき、そこに安住してきた「家」から出ることである。外へ踏み出すことである。
その時に、子どもは無防備な状態を一時的に通過する。この移行期において、子どもはひどく脆く、傷つきやすい状態になる。甲殻類が硬い外皮を脱ぎ捨てて、一時的に傷つきやすい柔らかい皮膚をさらさなければ成長できないように、子供が自己刷新するためには、一時的に傷つきやすく柔らかい肌を外気にさらさなければならない。連続的な自己刷新というのは非常に危険な企てなのである。
自己防衛システムを一時的に解除した、脆く、傷つきやすい状態にあるときに、誰かに傷つけられた経験を持った子どもはそれがトラウマとなって、それ以後自分を変えることを止めてしまう。自分の手持ちのスキームを手離したときに受けた痛みを忘れることができなくなる。
「俺は絶対に自分の生き方を変えない」と肩肘張っている子どもが時々いるが、そうなるのは彼らの罪ではない。
一度は自己刷新を試みたことがあるのだけれど、その時に誰かに傷つけられ、その痛みがあまりに耐えがたいものだったので、それ以後、自己刷新の企てを恐れるようになった。そういう子どもは「自分らしさ」に固着して、自分の殻に引きこもって、そこから出ないようになる。
大学の教師をしていると、それはよくわかる。大学に入ってきた新入生たちを見ると、程度の差はあれ、多くが中等教育の間に何らかのトラウマ的な経験をしている。
成長するために、自分の殻から抜け出そうとした時に、脆く、傷つきやすい皮膚を外気にさらしたときに、誰かに傷つけられた経験をしている。だから、身を護るためにしっかり殻を閉じている。絶対に教師なんかに心を開かないぞという決意を持っている子もいる。
彼らに「怖がる事はないよ。殻を捨てて、心を開いても誰も君を傷つけないから」ということを信じさせるために二年位かかる。そこまでで大学生活の半分が終わってしまう。だからようやく三年生になってからはじめて大学らしい学びが始まる。困ったものである。
だから学校教育、特に中等教育に関わってる人たちにお願いしたいのは、子どもたちが心を開いたときに、ひどく可傷的で脆弱な状態になったときに、決して傷を負わせないように護ってほしいということである。
学校というのは、その意味では本来は「温室」でなければならない。子どもたちがどれだけ無防備になっても、誰からも傷つけられる恐れがないという事を先生たちは保証してあげないといけない。
小さな子どもたちは、野生や自然につながっているという話を前にした。成長に導く過程で、それを全否定すると、子どもたちは傷つく。子どもたちの中にある「野生のもの」、こう言ってよければ、「聖なるもの」を毀損することなしに、そっと「大人の世界」の導き入れることが教育の要諦なのである。
子どもたちのうちにある「野生のもの」「聖なるもの」が毀損されることなしに、大人になった後も生き延びているというケースが稀にある。それが「イノセンス」である。
無垢であり、無防備であり得るというのは、実は例外的な幸運の結果なのである。
子ども時代に別れを告げるときに、トラウマ的な経験を回避できた幸福な子どもたちは、長じた後も、無防備さを保つことができる。これが例外的な幸運であるのは、知的であるためには、ある種の無防備さが必要だからである。
自己刷新よりも、自己防衛への気遣いの方が優先するようなタイプの人間は、「学び」には開かれていない。
頑丈な甲冑で身を固めていて、どんな攻撃にも対処できるという人が同時に知的であるという事はありえない。
知的であるという事は、無防備であるということだからである。「無防備になれる」というのは、高度の社会的能力なのである。
大人になっても無防備であり得る人間というのは、周囲の人間に害意を醸成することがない人である。どうしても憎むことができない。どうしても傷つける気がしない。
全く無防備で、開放的でいるのに、傷つけたり恥ずかしめたりする気になれないという人が稀にいる。
私はそれがある種の人間的理想だと思う。
そういう人は、自己刷新をためらわない。自分のスキームでは理解したり、類別したりできない現実に出会うと、惜しげもなく、自分のスキームを手放し、新しく書き換えてゆくことができる。
そういう「イノセントな人」は、子ども時代から大人になるときに、周囲の配慮によってか、あるいは本人の天性の危機回避能力によってか、深いトラウマ的経験をすることがなかった幸運な人である。
私は学校教育の現場に長く立っていた経験から、できるだけ子どもたちを「イノセントな状態」で世の中に送り出してゆくことが教師に責務だと思うようになった。
そう考える教師はあまり多くないと思う。
多くは子どもたちに「戦って、勝ち残る力」を与えようとする。それは決して間違ってはいない。でも、「自己防衛」に習熟することの代償に、子どもたちが「自己刷新」のチャンスを失うことがあるという事はわきまえていたほうがいいと思う。
自己防衛と自己刷新はゼロサムの関係にある。
今の日本の学校教育は子供たちを「小さく固める」ことにはずいぶん熱心だけれども、子どもたちを「イノセント」な状態に保つことへの配慮は絶望的に足りない。
だから日本社会に今最も欠けているのは「イノセントな大人」なのだ。
イノセンスを保ったまま成長した人は、金が欲しいとか、権力が欲しいとか、有名になりたいとかいう世俗的な欲望と無縁である。社会的承認もうるさく求めない。いつも穏やかに微笑んで、周りの人々を気遣い、常に「学ぶ」ことに開かれている。
子供たちのイノセンスを護り、かつ彼らの成長を支援するという困難な課題こそ、学校教育の核心部分だと私は思う。同意してくれる人はとても少ないが。