読書逍遥第230回 『モンゴル紀行』(その7)街道をゆく5 司馬遼太郎著
『モンゴル紀行』(その7)街道をゆく5 司馬遼太郎著
ゴビ草原
ゲルでの食事を終えて、懐中電灯を持って外に出る。
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食堂の明かりは半径20メートルほどの地面を照らしている。それを過ぎると、宇宙をいっぱいに広がった星の大群のなかに紛れ込んでしまいそうなほどの世界に入る。この星のすさまじさはどうであろう。
背後から、家内がついてきている。満天の星に押しひしがれたような姿勢で、押しだまっている。うかつに物をいえば、星にとどいて声が星からはね返ってきそうなほどに天が近かったし、それを恐れてるような姿勢だった。
人影がもう一つ近づいてきた。須田克太画伯だった。先刻、食堂で別れたばかりなのにひどく懐かしい感じがして、
「1キロほど歩きましょうか」
と言ってみたところ、須田さんらしい人影はなま返事をしただけだった。やがて、どうしていいのかわからない気持ちです、という返事が返ってきた。こんな物すい星空というのを初めて見ました。心も足もすくんでしまっています、といった。
「星ばかり描き続けているエカキがいるのです。その人に、こんな星ばかりの大観を見せたら、嬉しくて狂い死んでしまうかもしれしれません」
「星というのは絵になるのでしょうか」
と聞いてみたが、須田さんはご当人がいうとおり、星空に圧せられて竦んでしまったのか、返事をしなかった。
星ばかりの大観という須田さんの表現は、実感そのものといっていい。風が砂を吹き上げない季節のモンゴル高原の空気の透明度はおそらく世界一であろう。乾燥して水蒸気が少ないために、無数の星が瞬きもしないのである。
日本の田舎などで見る星よりひとまわり光芒が大きく、それが実感的数量として何千万もの光点が、金属音を立てるようにして光っている。
須田さんの黒い影が、あごを上げて天の川を見上げている。ぼう然と放下している感じが神仙のようでもある。
天の川というこの乳色の星雲のながれが、実感として30センチ幅で地平線から地平線へ大きく流れているのだが、これほど長大な流れであるとは、この星空の下に立つまでは、ついぞ知らなかった。
夏のあらゆる星座が、われわれに挑みかかるようにして出ている。私にはそのことの知識が乏しいが、天の川に重なって、鳥が翼を広げて飛んでゆくような星座が、白鳥座なのであろう。そのうちの四つの星が、クロスしている。北十字星がそれであるようだった。