読書逍遥第222回 『オランダ紀行』(その11) 街道をゆく35 司馬遼太郎著
『オランダ紀行』(その11) 街道をゆく35 司馬遼太郎著
いよいよ終盤、フィンセット・ファン・ゴッホ(1853-1890)への旅に至る。
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ゴッホへの旅は、、少し気取って言えば、才能を抱かされてしまったものへの悲しみの旅と言っていい。
ごく一般的にいって、絵画は人にとって身の回りの装飾である。
絵のかかった部屋でコーヒーを飲むのは楽しいし、また広げている新聞に、広告欄という絵画的な部分がなければ、紙面は活字のチリの山のようになってしまう。
が、ゴッホの絵は、楽しさとは別のもののようである。といって、思わせぶりな陰鬱さはない。
明暗とか躁鬱とか言った衣装で、測れるものではなく、はね橋を描いても、自画像を描いても、ひまわりを描いても、ついにじみ出てしまう人間の根源的な感情がある。
それは悲しみと言うほか言いあらわしようがない。ただし、この悲しみは、失恋とか、経済的な不如意とか言った相対的なものではない。むろん生前評価されなかったという不遇感から来るものでもない。
どうも彼の悲しみは、人として生まれてきたことについての基本的なものである。
「この世はこの絵のように楽しい」と、黄金の17世紀のレンブラントは描き続けたが、19世紀のゴッホは衰弱したオランダのように悲しいのである。
「馬鈴薯を食べる人びと」の食卓には、バターもない。五人のどの表情にも、ものを食べる楽しみなどはなく、命を生きつなぐために、その夜の食事をとっている。
人は生まれてきた以上は生きざるを得ない。生きるためには食べざるを得ず、食べるためには耕さざるを得ない。
耕した結果として得たものを、灯のもとに集まって咀嚼している。それが人だということを、ゴッホは凝視する。さらにはそれ以外の人を認めない、というところに、ゴッホの倫理的苛烈さがある。
ゴッホを観るのは一点だけでいい。多様で多数なその作品群を一堂で観ると、当方のいのちまで重くなってしまうのである。
私はゴッホの絵が好きである。
彼は神の前で原罪を感ずるということでの基本的な宗教性を持ち、それがために虚飾を憎み、ほとんど空想的なほどに平等を信じ、常に赤裸だった。
赤裸が、正直と言ってもいいが、彼の文章を生む核になっている。
自分自身について常に素のままであると言う精神は、どうやら生まれつきのものであったようだが、そのことが、初期の信仰生活によって、神の前で虚飾をぬぐという精神の習慣によって、堅牢なものになった。
自分に正直であれば、言葉は湧くように出てくるものである。
ゴッホの場合、どの言葉も、生きた自分の皮膚や皮膜や内臓を切り取ったものであり、ついに言葉を言うことがもどかしいあまり現実に耳を切りとるまでのことをした。
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唐突なことを言うようだが、ゴッホを考える事は、自分で自分を解放すると言うことであるらしい。ただし、解放とか自由とかいうものは恐ろしくもある。
人は、慣習の中で生きているのである。
絵の場合でいえば、絵とはこういうもので、こう描くのだ、という慣習(固定観念)にくるまれてさえれば、気楽この上ない。自由こそないが、奴隷の気楽さがある。技術の巧拙だけを気にしていればいいのである。
慣習のことを、冬布団にたとえてもいい。それに包まれていれば楽である。
慣習から飛び出して自由を得れば、自分で自分の体内の脂肪を焚いて体温を保つしかなく、なにごとも自分で考え、自分で実行し、批難の矢はすべて自分の胸で受けざるを得ない。
ゴッホは真に自由を得た人だったが、その生涯はそれだけに辛かった。