読書逍遥第217回 『オランダ紀行』(その6) 街道をゆく35 司馬遼太郎著
『オランダ紀行』(その6) 街道をゆく35 司馬遼太郎著
オランダ社会がいかに多様性を重視しているかの指摘があった。これは見逃せないので記載しておく
《多様性を認めあう社会》
オランダはこれを維持するには多大な努力をはらってきた
ちなみにオランダのジェンダーギャップ指数ランキングを調べたら28位(日本118位)だ。
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オランダの国土は、何分の一かが海面より低い。堤防が、人々や動植物を海から守っている。
「オランダ人とは何か」という定義は存外難しい。
「堤防のこちら側に住んでいる人たちのことだ」とおおらかに言うのが一番いいかもしれない。
堅苦しくいえば、オランダ人とは西ゲルマン派であるオランダ語を話す人々のことである。
形式的には、髪は茶やブロンドが多く、身長は平均してヨーロッパでも最も高く、皮膚は白い。
しかしオランダ人一般からは、こういう定義付けは好まれない。なぜならば、インドネシアにいた旧華僑系や、ユダヤ人、アフリカ系などのオランダ人がいくらでもいるからである。
今はヨーロッパでは、肌の色で人を差別するな、という教育が徹底的に行われているから、少なくとも表面上は何の差別もない
が、オランダほどその方面で徹底している国はない。
17世紀初頭に国を興して以来、例えば、ユダヤ人差別問題など、ないに等しかった。
古くは、ユダヤ人は他民族(他宗教)と自分たちと厳しく区分けしてきたこともあって、ヨーロッパでは一般的に特別視された。ヨーロッパのたいていの国は、ユダヤ人差別の歴史を持ってきたが、オランダにはない。
「特別視するはずがありませんよ。たいていのオランダ人は、血液的には何分の一かユダヤ人です」
と、私にいったオランダ人がいた。ともかくも、人種論という、人類の最後の迷信から、オランダ人は突出してまぬがれている。
ついでに言うと、哲学者のスピノザ(1632-1677)もオランダ思想史の中にいる。ただし、彼の両親はポルトガルにいたユダヤ人で、迫害を受けてオランダに逃れ、スピノザをアムステルダムで育てた。だから、れっきとしたオランダ市民であった。
スピノザは、当時のオランダ人を特徴づける清潔で質素なプロテスタンティズムそのものの人柄だった。レンズを磨いて生計を立てたと言われるが、そのくらしは慎ましく、その高潔さで友人たちから尊敬されていた。ただオランダ語はあまり上手ではなかったらしい。
現代史も、ほんの半世紀前までは苛だった。
ナチがユダヤ人を激しく迫害し、彼らをけもののようにとらえては収容所に送り、その多くをガス室で殺した。
少女アンネ・フランクが、いわゆる『アンネの日記』をナチ占領下のアムステルダムで書いた。
アンネ・フランクの家系は、数百年もドイツに住み続けながら、ユダヤ人であるために、その両親は彼女を連れてドイツを脱出せざるを得なかった。
当時中立国だったオランダに逃れ、アムステルダムの隠れ家で息を潜めてくらした。やがてナチによるユダヤ人狩りが始まり、結局この一家もとらえられて、悲惨な運命におちいる。彼女らがアムステルダムで潜んでいたころ、一般にオランダ人は追われてきたユダヤ人に対してきわめて同情的だったと言われている。
そんなぐあいで、17世紀の建国以後、オランダは他民族に対し、寛容で、少なくとも神秘的差別感を持たなかった。
「オランダ国籍を持てば、オランダ人です」ということをしきりに聞いた。
むろん、そのことは学校と家庭での教育の結果に違いない。この教育は、徹底して行われている。
かつてのナチ・ドイツが、”ドイツ純潔主義”をとなえて、ヨーロッパじゅうに惨禍を与えたことは、当時、ナチの占領下にあったオランダ人が最もよく知っている。彼らは、骨の髄から、人種論の恐ろしさを知っているのである。
いま、仮に、アムステルダムの小学校にいる生粋(?)のオランダ人児童が、他の30%である黄色や黒いひとびとを差別したりすれば、将来、必ず仕返しを受ける。そんなめに遭うよりも、国家と家庭が総がかりで平等と非差別の教育を徹底してやった方がいいに決まっている。
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日本で、人種偏見やジェンダーギャップが改善していかないのはなぜだろう
オランダ地図を眺めながら、この疑問に向き合っている