第7回 蕪村句「梅に遅速を愛す」
二もとの梅に遅速を愛すかな 蕪村
庭に二本の梅があって今年の春到来を告げる。
その開花にも品種と日当たりの多少の相違で早い遅いがある。
そこにまた春の訪れがつぶさに感じられて楽しい。
今年も梅の季節がやってきた。
蕪村の不思議な句。忘れ難い句だ。
その理由は、助詞「に」の使い方にあるようだ。
「梅の遅速を愛す」ではなく、「梅に遅速を愛す」としたこと。
わずか一字の違いだが、長らく、「に」の効果の理由が分からなかった。
中村草田男の文章を見つけたら、この疑問は氷解した。蕪村の巧まざる巧みがここにも見つかった。
俳人、中村草田男の蕪村句評は定評がある。
我家の庭に二本の梅がある。つぼみをつけるに始まって落花に果てるまで、双方で少しずつ速いと遅いとの差がある。
それを眺めているのが、自分にはまた楽しい。「梅に」とあって、「梅の」となっていないのは、「に」というやや停滞の語感によって、読者の注意を梅そのものに凝集せしめるためである。
作者は、梅という「物」をまず愛している。
その上さらに、その物の上に展開される遅速という「事」をも愛しているのである。「遅速」が漢語であるように、「愛す」も漢語である。
中村草田男 『蕪村集』より抜粋
漢語のしかも動詞と、「かな」の切字とのかかる連結は従来存在しなかったもので、耳ざわりだったとみえて、弟子の大魯が批難気味にその理由を質問したのに対して、蕪村は十分の漢字の素養があって行えば和漢両語を調和せしめ得てさしつかえなき旨を教えている書簡がある。
「二もとの」和語に、単に形式的にだけ即応さすためならば「愛づる哉」の方が適当であろう。
しかし、それでは中央に位する「遅速」の漢語が取り残されて、いたずらに窮屈の感を帯びるに至る。
漢語からの感興に発しているこの句は、必ず「遅速」の漢語を利用し、しかも全体のリズムの滑らかさをも損なわざらんことを条件として課せられている。
その条件を果たすためには、かく中部の「遅速」の漢語を、下部の「愛す」の漢語で受けて締めすえる必要があったのである。
蕪村の助詞「に」をこのように使用した不思議な句はいくつも見つかる。
たとえば、
埋火や春に減ゆく夜やいくつ
白梅に明る夜ばかりとなりにけり
路絶て香にせまり咲茨かな
青梅に眉あつめたる美人かな
うは風に音なき麦を枕もと
能(よく)きけば桶に音を鳴田螺哉
以上