読書逍遥

読書逍遥第676回『司馬遼太郎が発見した日本』(その2)「街道をゆく」を読み解く 松本健一著

冨田鋼一郎

『司馬遼太郎が発見した日本』(その2)「街道をゆく」を読み解く 松本健一著

「涙の港 リヴァプール」

アイルランドに渡るにあたって、司馬はまずロンドンに入った。ロンドンはかれにとって居心地がよい都市だった。それは、この街が古い街並を残すという精神によって成り立っているからであったらしい。

ロンドンの街は、ピョートル一世が”文明開化”の志によってつくったロシアのペテルブルグや、ナポレオン三世が大フランスの象徴という芸術的意図によってつくったパリなどとちがっている。

十八、九世紀、世界経済の中心としてふくれあがった英国のビジネスをまかなうための機構として膨張した。いわば働く都市である。ニューヨークや東京の原形ともいえる。

そういうことからみれば、蒸気機関のように古びてしまっている。どのビルもびが出ていて、使い勝手がわるそうだが、それを、ロンドン市民たちは断固たる思想と意志をもって、パリやレニングラードやウィーンを残すようにして、保存しようとしている。あたかも、都市そのものを博物館にして”大英帝国”を保存しようとしているようにみえる。

街ぜんたいが博物館のような”古さ”において、ロンドンの街並は落ちつきはらっている。そのことが、司馬にとって居心地がよかったのである。かれはなつかしさがこみあげてきたともいっている。

ロンドンは、一世紀ほどまえ、夏目漱石が留学したときには、まだ大英帝国が栄光の時代だった。漱石はその栄光のなかで、「尤も不愉快の二年」をすごした。司馬はそのことにふれながら、漱石がいだいた「明治の悲しみ」に思いを致している。文明としての西洋と陋様な日本というものを一個人で代表しつつ、西欧文明と対決しつづけていることをここで”悲しみ”とよぶと。

司馬はロンドンで、英国という光を多少感じてから、影であるアイルランドに入りたいと考えた。ただ、そこから一気にダブリンまで飛ぶつもりはなく、鉄道でリヴアプールに出る方法をとった。なぜか。

かれのリヴァプール行には、二つの目的があった。一つは、十九世紀まで英国が”世界の工場”だったとき、この港市は、当時の神戸と横浜をあわせて数乗したほどの輸出入量を誇る大海港だった。その名残りをみるためである。

そして、ここがアイルランド人にとっての、移民”としての歴史をきざむ港だったからだ。そのことを考えると、リヴァプールを経てアイルランド島にわたるのが礼儀だというのである。リヴァプール行がじつは「イギリス」の主目的だったことを、かれは次のように語り明かしている。

アイルランド人が自分の島を食いつめて、自分の単純労働を唯一の商品にすべく英国にわたってくるときの上陸地だった。そのままリヴァプールに住みつくアイルランド人も多い。たとえば、住みつきアイルランド人の子孫から「ビートルズ」の三人のメンバーが出た。

あるいは、アイルランド島からアメリカ合国へ移民しようとするひとびとも、いったん英本国のリヴァプールへゆき、そこから大西洋をわたった。多くは着のみ着のままだった。

アイルランド人にとってこのイギリスの港市は、日本の演歌ふうにいえば涙の港というほかない。

その「涙」を、ビートルズは問題が拠って立つ絨毯を、問題ぐるみひっぺがすような、殺気立ったかたちでは歌わなかった。ジョン・レノン「あなたがアイルランド人なら」という、直截的な悲しみとして叙情的に歌った、司馬は書くのである。

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ABOUT ME
冨田鋼一郎
冨田鋼一郎
文芸・文化・教育研究家
日本の金融機関勤務後、10年間「学ぶこと、働くこと、生きること」についての講義で大学の教壇に立つ。

各地で「社会と自分」に関するテーマやライフワークの「夏目漱石」「俳諧」「渡辺崋山」などの講演活動を行う。

著書
『偉大なる美しい誤解 漱石に学ぶ生き方のヒント』(郁朋社2018)
『蕪村と崋山 小春に遊ぶ蝶たち』(郁朋社2019)
『四明から蕪村へ』(郁朋社2021)
『論考】蕪村・月居 師弟合作「紫陽花図」について』(Kindle)
『花影東に〜蕪村絵画「渡月橋図」の謎に迫る』(Kindle)
『真の大丈夫 私にとっての漱石さん』(Kindle)
『渡辺崋山 淡彩紀行『目黒詣』』(Kindle)
『夢ハ何々(なぞなぞ)』(Kindle)
『新説 「蕪」とはなにか』(Kindle)
『漱石さんの見る21世紀』(Kindle)
『徹底鑑賞『吾輩は猫である』』(Kindle)
『漱石さんにみる良い師、良い友とは』(Kindle)
『漱石さん詞華集(アンソロジー)』(Kindle)
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