読書逍遥

読書逍遥第674回『江戸の想像力』(その1) 18世紀のメディアと表徴 田中優子著

冨田鋼一郎

『江戸の想像力』(その1) 18世紀のメディアと表徴 田中優子著

[日本の近世を考える]
17世紀から19世紀にかけての近世日本を、東南アジア、世界のなかに位置付けて見る
スケールの大きな本だ

ここにあるゼーランディア城は、オランダにあるゼーランド地方に因んだ名前だ。ニュージーランドも、このゼーランド地方から名付けられた

「近世的なるものへ」

1571年、ポルトガル国王ドン・セバスチャンは、日本人奴隷の取引禁止令を出した。禁止せねばならないほど、大量の日本人たちが奴隷として南アジア、アメリカ、メキシコに流出していたのだった。
しかし日本人たちはポルトガル商人に対して奴隷でありつつ、同時に、朝鮮半島や東南アジアに対しては征服者の顔を向けていた。

1597年、ポルトガル宣教師はマニラの副総督にあてて、次のような警告を発している。
「彼(秀吉)は今は朝鮮問題に忙殺されているが、来年はルソンにおもむくとのことだ。この目的を達するために、彼は琉球列島および台湾島の占領を計画し、同島をへて軍隊をカガヤンに送り、さらにマニラに殺到するそうである」

そのころ日本は、弾丸用の鉛と火薬用の烟硝を中国・タイ・カンボジアから、黄金と生糸を中国から、大量の壺をフィリピンから、気違いのように買いあさっていた。

1600年代、日本はカンボジアに2カ所、フィリピンに2カ所、ベトナムに2カ所、タイに1カ所の日本人町をもち、台湾、中国南部、マレーシア、シンガポール、インドネシアに日本人たちが居住していた。

このころベトナムには中国人にまじって数百人の日本人が暮らしており、1651年にもまだ2百人以上の日本人がいたことが記録されている。

フィリピンの日本人は、1620年には3千人をかぞえていた。その半数はカトリック信者だったという。
カンボジアにはこのころ、マレー人やベトナム人にまじって2百人以上の日本人が暮らしている。
インドネシアのジャカルタ(バタビア)にいる日本人たちは、オランダ東インド会社に雇われ、ボルネオ、スマトラ、テルナテなどの島々に派遣されて労働していたという。

タイには1626年ころ、15百人あまりの日本人が在住している。それ以外に、国王の近衛隊の中には、8百人以上の日本人傭兵がいたという。

このように日本近世は、アジアの海の激しい流動の中ではじまった。

日本はアジア各地の商品を手に入れるためにヨーロッパを利用し、貿易の拠点となる台湾やタイの支配をめぐって、オランダ人たちとの衝突を繰り返していた。その中で、多くの日本人たちがその後長く記憶することになった事件に、ゼーランディア城の攻防がある。

1624年、オランダ東インド会社に所属するオランダ人たちは、台湾南部を占領して城を築いた。これは主に日本貿易の中継地として使うものであった。

日本貿易は彼らに大きな利益をもたらす。そしてそれを持続するためには、アジア諸国、たとえばフィリピンやインドネシアやタイや中国から、商品を日本に運んで行かねばならなかったのだ。

ポルトガル人もオランダ人たちも、ヨーロッパと日本のかけ橋であるより、アジア諸国間で品物を動かし、それによって利を得る貿易商人であり、運送業者であった。その重要な戦略基地・台湾に築いた城を、彼らはゼーランディア城と呼んだ。

1626年、2隻の日本船が台湾に寄港する。オランダ東インド会社は当然のことのように、彼ら日本人たちの運んで来た貿易品に課税する。ここはオランダの所有地だから、というわけだ。が、この時、この日本人乗組員たちは税金の支払いを拒否したのだった。そればかりでなく、中国大陸に貿易品を引きとりに行くから船を貸してくれ、とオランダに申し出る。が、今度はオランダがこれを断わった。

ことはここから起こる。翌1627年、これが幕府に通達される。当時のオランダ東インド会社長官ヌイツは江戸にかけつける。しかし将軍はその会見申し出を蹴る。

次の年1628年、日本の朱印船二隻が、銃、槍、弓、矢などの武器を満載し、五百人近い乗組員を乗せて、日本から台湾へ向かう。ゼーランディア城の戦いの始まりだ。船に乗って来た日本人たちはオランダ人に銃を突きつけ、五人のオランダ人を人質にとり、貿易品を奪い返し、賠償金を払わせる。オランダ人の人質はそのまま船に乗せられて長崎へ連れて行かれる。平戸の商館は封鎖され、オランダ船は監視される。
この事件は解決までに十年を要した。

この十年にわたる事件のあとには、オランダからの献上品として、ピストル12丁と、ペルシャ絨と、ビロードと、アムステルダム製の銅の大灯籠が残った。その巨大な灯籠は、あの日光東照宮という不思議なバロック空間の中に、今でも置かれている。

日光東照宮ばかりではない。多種多様なものがびっしりと空間を埋めつくすあの色彩感覚。
写実という名で始まるあの、鮮明・細密な絵画の運動。その中に描かれる動物や植物や人間の顔の雑多な「物尽し」的共存。

色彩の要求がついに技術を生み出す、色彩浮世絵版画の誕生。歌舞伎舞台の絢爛。遊女装束の極端さ。絵入りの本の大量印刷。そしてそれらを作ることと愉しむことの中にある、あの屈託のない、乾いた哄笑。

これらのむこうには中国があり、タイが、カンボジアが、台湾が、ベトナムが、インドネシアが、フィリピンがあり、それらを運び来るものとしてのポルトガルやオランダやイタリアやスペインが、それらに渾然とまじっていた。

日光東照宮を「縄文的なるもの」、と比喩した人がいる。確かにそれはある種の奔放なエネルギーであるが、それは無形式の奔放ではない。過剰に人工的で、様式を極めていて、誇張と、不自然さと、それらを雑多に無限に組み合わせてゆく方法をもっていた。

近世的なものとは、人工するエネルギー、極端な文化的爛熟であるとともに、自然状態への激しい憧慣であった。新たな創造への衝動であるとともに、過去への熱い視線であった。

「外部」=「異質なるもの」との出会いであると同時に、すべてのものが「相対的」であることの発見であった。しかしそれはどうやら日本だけの現象ではなかったようだ。

日本の場合、それは中国文化の爛熟の中で起こったものだった。「影響」などという生やさしいものではない。日本の現象とは、アジアの中国文化圏の現象であり、展開であるのだった。
確かに、境界線は十八世紀の前後にあるのだろう。それは地球規模で見出だされる境界線であるのだろう。

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ABOUT ME
冨田鋼一郎
冨田鋼一郎
文芸・文化・教育研究家
日本の金融機関勤務後、10年間「学ぶこと、働くこと、生きること」についての講義で大学の教壇に立つ。

各地で「社会と自分」に関するテーマやライフワークの「夏目漱石」「俳諧」「渡辺崋山」などの講演活動を行う。

著書
『偉大なる美しい誤解 漱石に学ぶ生き方のヒント』(郁朋社2018)
『蕪村と崋山 小春に遊ぶ蝶たち』(郁朋社2019)
『四明から蕪村へ』(郁朋社2021)
『論考】蕪村・月居 師弟合作「紫陽花図」について』(Kindle)
『花影東に〜蕪村絵画「渡月橋図」の謎に迫る』(Kindle)
『真の大丈夫 私にとっての漱石さん』(Kindle)
『渡辺崋山 淡彩紀行『目黒詣』』(Kindle)
『夢ハ何々(なぞなぞ)』(Kindle)
『新説 「蕪」とはなにか』(Kindle)
『漱石さんの見る21世紀』(Kindle)
『徹底鑑賞『吾輩は猫である』』(Kindle)
『漱石さんにみる良い師、良い友とは』(Kindle)
『漱石さん詞華集(アンソロジー)』(Kindle)
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