読書逍遥第673回『快読 シェイクスピア』河合隼雄・松岡和子著 (その3)

『快読 シェイクスピア』河合隼雄・松岡和子著 (その3)
[引き裂かれた人物 ハムレット30歳]
《演技》
河合) 人間がこの社会に生きている、社会人であるということは、すでにある種の演技を伴う行為なんですね。人間の宿命として、皆が演じているわけだけれど、演技がその人を全部覆ってしまうと悲劇が起こる。家に帰っても校長先生のような父親だったら、子供はたまったもんじゃない。父親になれていないということでしょうか。父親は父親の演技をしているわけですから。
その場合、一人の人間を一貫したひとつと考えるのか、それともいろいろな面の総体がその人なのかと考えると、やはり一貫したひとつがあり得るという考えにこだわるのは一神教の世界です。なんとかして、そのひとつを守ろうとする。ここからは私の解釈ですけれど、その結果、アメリカは最近、多重人格者が急増した。現代社会ではそうならざるを得ない。ところが、日本人は曖昧にしてきたから、多重人格にはそれほどならないんですよ。
『ハムレット』では、社会人としての重荷については、クローディアスとガートルードのケースが一番はっきりしている。王と王妃。しかも裏の事情があってついた王座でしょ。だからますます演技しなきゃならない。クローディアスなんてハムレットに対して父親の演技までしょうとしてますね、必死になって。ガートルードの場合は割りと自然にお母さんでいるけれど、それでもこの二人は懸命に演技している。それから、ポローニアスもそうですね。首相ですから。
ハムレットはデンマーク王子としては精いっぱい演技をしなければならない。ところが、ハムレットは自分自身で生きたいと思っているわけです。それなのに悲劇的にも、自分自身になるためには演技をしなきゃならない羽目に追い込まれる。父親の復讐を果たすには、皆を欺がなくてはなりませんからね。
ハムレットは、自分自身を貰くために最大の演技を強いられている人間として登場する。自分自身になるのは死ぬ時ですよ。
だから、ハムレットは可哀相に、王権を継ぐ者として、それから秘密を知る者として、二重に皆から見られている。自分自身になりたいという永遠の少年的なものを一番持っているにもかかわらずね。永遠の少年はね、自分自身でありたいなんて安易に思うわけですよ。で、ソーシャルな場面で自分自身を出すから、混乱を招いてしまう。
松岡) 私は、ハムレットを演技する主人公と捉えて、「視線の政治学」という文章を書いたことがあります。もちろん、生まれながらに演技力のある人間もいて、個人差は多少あるんでしょうけれど、どれだけ多くの観客をもっているかによって、演技をしなくてはならない必然性が出てくるんじゃないかと思うんです。
河合) それから見られることによって演技上手になりますよ。皆が見てると意識するだけで、どんどん変わっていくでしょ。考えたら私の職業もそれに通じるものがあるかもしれない。ずっと同じ人の話を聞いてて、どんな変な言動があろうと見続けて、聞き続ける。すると、その人がだんだん変わってくるわけですから。やっぱり見られていることの影響力は大きい。
松岡) そうですよね。この芝居をおしまいまでたどっていくと、随所にそれを示唆する言葉が出てくるんですね。そのひとつがクローディアスの台詞「見られずに見る seeing unseen」です。それから、尼寺へ行けと言われたオフィーリアが一人取り残された時に、ハムレットのことを「あらゆる人の注目の的 Th’ observed of all observers でいらしたのに」と言います。observer は、見る人ですね。「見る人によって見られる人」であること、それだけまわりの注目を浴びていたことを、observeという単語の能動態と受動態の両方を使って端的に表していると思います。
見られていれば、これはしないという表出規制も働くし、あえてこれをするという動機にもなる。だから見られる人は、より見られるようになって行く。
河合) 見られることによって成長する面と、見られることによって、本来の自分から離れる面と、両方ありと思うんですよ。
松岡) 危険ですね。
河合) とても危険です。両刃の剣みたいなところがあります。視線恐怖というノイローゼがあるんです。日本人には実に多い。いつも見られているとか、皆が見ていると思いこむので、動きもぎこちなくなるし、外に出るのもいやになる。
たとえば、私は外国に行くとほっとする時がありますね。誰も知らない所にいるわけだから、誰にも見られていない安心感。日本ではどこへ行っても誰が見てるか分からないから、悪いことする前に辺りを確かめないとまずい(笑)。
可哀相に、ハムレットは全員から見られている。また、その見かたも二重で、王権を継ぐ者と秘密を知る者としてでしょう。それを韜晦するためにわざわざ狂人のまねするわけです。すると、狂気は本物かどうかと、また見張られる。
松岡) ローゼンクランツとギルデンスターンなんて、わざわざハムレットを見るために呼び寄せられているわけですからね。
河合) どこかにね、心の内を見るという台詞もあったんですよ。たしかガートルードが言ったんじゃないかな。
松岡) ああ。三幕四場の寝室の場じゃないですか。
河合) そう、ありました。「ああ、ハムレット、もう何も言わないで。お前は私の目を心の奥に向けさせる」、つまり、ハムレット自身が見なくても、ハムレットという存在のおかげで、皆が自分を見なければならなくなる。だから、みんな困るんですね。
日本語の「観」という字、あれはもともと自分を見るの「観る」なんです。日本人にはobserve という考えかたがなかったんです。observe は客観的に見ているわけでしょ。
それがない。日本語の「見る」は、客観も主観も入っているような曖昧な形です。
ハムレットはobserve されると同時に、内的に自分を観ている。しかも二重三重に観ているから、迷いがあって行動できないように見える。でも実際は、いわゆる行動派の人が、自分が観てる、人が見てるというたくさんの視線の中で動こうとするから動きにくい、ということでしょうね。
シェイクスピアはそういう人物を設定したと思っています。日本人は見られているという意識が強いから、日本人的にハムレットを好きになる。日本人的に好きになる人には、ハムレットの行動力を見逃す人が多いと思います。だから、ハムレット的と言えば・・・・・・。
松岡) 考える人ね。悩む人とか。
河合) しかし、役者としたら、こんなにやりたい役は他にないんじゃないかな。
松岡) ええ、本当にそう思います。

