読書逍遥第182回 『細胞』(上・下)(その2)ジッダールタ・ムカジー著
冨田鋼一郎
有秋小春

「習字」
もう少し上手な字が書けたらとか、悪筆をなんとか直したいという思いを、多かれ少なかれ我々は持ち続けている。
ワープロの普及で、やれやれこれで安心して手紙やリポートが書けると胸をなでおろしている人も多いはずだ。
文字が言葉であるにとどまらず、それ以外の何かを含んでいるという意識の発生をどの時代まで遡ることができるのだろうか、と考えた時に思い出されるのは、紀元一世紀、中国後漢代の木(写真参照)である。木簡とは、紙の無い時代あるいは紙が出来てからも用いられた書写用木片のことだ。
このころの通行書体は字画の終筆に波たく(石辺に傑の旁)と呼ぶはらいを伴っていた(隷書体)。この木簡からは、「大」の文字や「場」の字形、とくに波たくをどのように書くかに苦心して、習字している様子がまざまざと甦ってくる。
これは、文字の規範を学習している姿とは異なっている。言葉としての文字にとっては、はらいの形が太かろうが細かろうが、丸みを帯びようが角ばろうが、方向が横をむこうが斜
上を目指そうが、どちらだってかまいはしない。ところが、この木簡の書き手ははらいの形に
こだわっている。言葉としての文字を誤りなく定着する以上の意識(書意識)に導かれているのだ。
毛筆の穂先が着陸、離陸する際に造形される起筆と終筆。字画にとっては付属物にすぎないその形に目をとどめ、肥大化し、意識的に表出した時、現在に連なる書意識は誕生した。
この木簡はそれを証明して!!
