読書逍遥第168回 『タッシリ・ナジェール 遺跡との対話』森本哲郎著
冨田鋼一郎
有秋小春

[篆刻]
書道展に出かけると、朱で押印された印影が額に入れられ、陳列されていることがある。このように芸術としてふるまう印を篆刻と呼ぶ。
はんこ屋さんが工夫をこらして仕上げた実印も、篆刻家が苦心してつくりあげた篆刻(いわゆる雅印)もともに、石や象外や木などに文字を刻ったものであることに違いはない。事実、はんこ屋さんで篆刻家という人は結構多い。
にもかかわらず、私たちはこれらを表現上異なったものとして取り扱っている。その差はどこに求められるのだろうか。
実印にだって、曲がりくねった画の集合がかもし出す荘重感や神秘感がある。でも篆刻にくらべると風趣に乏しいように思われる。
篆刻の印影をじっとのぞきこむと、その秘密に気づくことができる。
宇画は摩耗したかのように変形し、画の一部は欠け、あるいは画相互のすき間が欠け落ちて一体化している。外縁の輪郭や輪辺も摩滅したかのように四隅を欠き、各辺は平行であることを止め、ところどころに損傷の痕を刻んでいる。印判では不吉として禁忌されるこれらの表現が篆刻ではふんだんに用いられている。それどころか、これらの表現を欠いたところでは篆刻は成立しない。
篆刻とは、風蝕や摩耗を意識的に再現するところに成立する。自然の風化、侵蝕の跡を美と感じるところに成立する「風化の美学」だ。
呉昌碩(1844-1927)はこの秘密に到達した代表的篆刻家であった。「風化の美学」は、特殊アジア的な美意識と言えよう。
呉昌碩「石人子室」
