読書逍遥第654回『書と文字は面白い』(その9) 石川九楊著

『書と文字は面白い』(その9) 石川九楊著
画人、文人になると、机周りの硯、墨、筆、そして、特に、印にこだわる
蕪村も、文人の端くれなので、印章を29 顆も持っていた。
[印]
印や篆刻は、文字を用いる点では書に似ているが、歴史的にも現実にも両者は相当の隔たりのある表出分野だ。
印相占いが流行し、悪質な印鑑商法に欺される人もあるようだが、どうもその現象は、印というものの本質とかかわっているように思われてならない。
印や篆刻と書の形式的にもっとも大きな違いは、文字が外枠や外縁の内部に閉じ込められるか、外枠なしにそのまま紙面に置かれるかにある。
「〇〇株式会社」「XX商店」という社名ゴム印は、明朝体や楷書体文字でできていて、黒や青のスタンプインクで捺す。文字の周囲に枠はない。これは書の範疇のものと考えられる。
ところが、銀行印や実印、代表者印は、くねくねと曲がった判読も容易ではない篆書体の文字が、四角や円、楕円の外枠に囲まれている。もちろん赤い朱肉で捺される。
何も書かれていない紙の上に円や四角形を描くと、白い紙の上に別種の領域が誕生する。
それらの図形の内側には、外側とは異質な空間が生まれる。一つの空間が二つの空間に分かれたのだ。
この異空間が聖別文字(多くは最後の聖別文字である篆書と、聖別色である朱色に彩られて聖別空間として出現するところに、印や象刻の本質がある。その点で、霊場巡りの集印帖は聖別空間のコレクションと言っていい。
近年、集刻をやる人が増えているとという。篆刻ブームとさえ言われる。私にはヨガ、冥想、新宗教、占い、オカルト、レトロブームと時空を同じくしているように思われる。
現実に取り囲まれながら、現実から線引きされ、隔絶された小さな異空間へのあこがれが、これらのブームを支えているように思われる。
篆刻もまた現実とは異なった小さな異空間へ人を誘う。

祖父も風流に遊んだ

