読書逍遥第286回『長江・夢紀行』(その6) さだまさし中国写真集 1983年発行
冨田鋼一郎
有秋小春

図版の「道」の字は、中国後漢代、紀元66年、山岳地のけわしい道路開削記念に自然岩に刻られた「開通褒斜道刻石」中の一字である。
岩肌の剥落や亀裂。風にさらされ雨にうたれて浮かびあがった石紋。自然の、その風化、浸蝕作用がなかったら、「開通褒道刻石」はこれほど衝撃的なまでに美しい姿をさらすことはなかっただろう。岩のくぼみや裂け目、ひび割れの中に、文字はしみ込み、溶けこみそうだ。
自然の造形の美しさとも違う。人工の美とも異なる。岩の石紋に吸収、解消される寸前でわずかに残る人工的造形。だがその危うい痕跡からたちのぼる確かな言葉。この自然でもなく、人工でもない矛盾の造形が「開通褒斜道刻石」の巨大な魅力を生んでいる。
拓という手法が、その劇的な構図をいっそう鮮やかに映しだす。刻石や石碑などの表面に
紙を水張りし、上から墨をつけたたんぽで叩くと、凹みは白、凸みは黒で生まれる素朴な印刷物、拓本。
拓本は、刻石や石碑上の文字
から、石や岩肌から離れられない具象的な色彩と光の微妙な階調を消去して、白黒の簡潔、鮮
明な対照で、文字や風化の跡を抽象化した空間にえぐり出す。拓本に写しとられた岩肌はもはや岩肌ではなく、文字はもはや刻られた跡ではない。
拓本は、作者、石工、自然、拓と四度の輪廻を通して文字を別のものにする、と説いたのは柳宗悦だった。
書の歴史上、最も美しい拓本はと問われたら、私は躊躇なく、この「開通褒斜道刻石」を指名
する。
