読書逍遥

読書逍遥第651回『書と文字は面白い』(その6) 石川九楊著

冨田鋼一郎

『書と文字は面白い』(その6) 石川九楊著

図版の「道」の字は、中国後漢代、紀元66年、山岳地のけわしい道路開削記念に自然岩に刻られた「開通褒斜道刻石」中の一字である。

岩肌の剥落や亀裂。風にさらされ雨にうたれて浮かびあがった石紋。自然の、その風化、浸蝕作用がなかったら、「開通褒道刻石」はこれほど衝撃的なまでに美しい姿をさらすことはなかっただろう。岩のくぼみや裂け目、ひび割れの中に、文字はしみ込み、溶けこみそうだ。

自然の造形の美しさとも違う。人工の美とも異なる。岩の石紋に吸収、解消される寸前でわずかに残る人工的造形。だがその危うい痕跡からたちのぼる確かな言葉。この自然でもなく、人工でもない矛盾の造形が「開通褒斜道刻石」の巨大な魅力を生んでいる。

拓という手法が、その劇的な構図をいっそう鮮やかに映しだす。刻石や石碑などの表面に
紙を水張りし、上から墨をつけたたんぽで叩くと、凹みは白、凸みは黒で生まれる素朴な印刷物、拓本。

拓本は、刻石や石碑上の文字
から、石や岩肌から離れられない具象的な色彩と光の微妙な階調を消去して、白黒の簡潔、鮮
明な対照で、文字や風化の跡を抽象化した空間にえぐり出す。拓本に写しとられた岩肌はもはや岩肌ではなく、文字はもはや刻られた跡ではない。

拓本は、作者、石工、自然、拓と四度の輪廻を通して文字を別のものにする、と説いたのは柳宗悦だった。

書の歴史上、最も美しい拓本はと問われたら、私は躊躇なく、この「開通褒斜道刻石」を指名
する。

[拓本]
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ABOUT ME
冨田鋼一郎
冨田鋼一郎
文芸・文化・教育研究家
日本の金融機関勤務後、10年間「学ぶこと、働くこと、生きること」についての講義で大学の教壇に立つ。

各地で「社会と自分」に関するテーマやライフワークの「夏目漱石」「俳諧」「渡辺崋山」などの講演活動を行う。

著書
『偉大なる美しい誤解 漱石に学ぶ生き方のヒント』(郁朋社2018)
『蕪村と崋山 小春に遊ぶ蝶たち』(郁朋社2019)
『四明から蕪村へ』(郁朋社2021)
『論考】蕪村・月居 師弟合作「紫陽花図」について』(Kindle)
『花影東に〜蕪村絵画「渡月橋図」の謎に迫る』(Kindle)
『真の大丈夫 私にとっての漱石さん』(Kindle)
『渡辺崋山 淡彩紀行『目黒詣』』(Kindle)
『夢ハ何々(なぞなぞ)』(Kindle)
『新説 「蕪」とはなにか』(Kindle)
『漱石さんの見る21世紀』(Kindle)
『徹底鑑賞『吾輩は猫である』』(Kindle)
『漱石さんにみる良い師、良い友とは』(Kindle)
『漱石さん詞華集(アンソロジー)』(Kindle)
『曳馬野(ひくまの)の萩』(Kindle)
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