読書逍遥第650回『書と文字は面白い』(その5) 石川九楊著

『書と文字は面白い』(その5) 石川九楊著
漢字一字についても、書家となると見る観点が違う
わずか三画の「山」の説明だが、筆を紙におろす時から書き終わりまでの呼吸まで伝わってくるようだ
「山」の字について、著者の解説に耳を傾ける
ここには普段使い慣れない語句がある
(起筆、転折、楕円の軌跡、書線軌道の定着、撥ね、払い、運筆、筆鋒、側筆、筆尖、筆触、送筆、終筆、文字の求心力など)
藤原行成の「白楽天詩巻」にある「山」と比較するために、蕪村の「山」を眺める
蕪村の個性のある文字をどう表現するかヒントがほしいと思って手にした
毛筆鑑賞の楽しさを知りたい
☆☆☆
藤原行成の「白楽天詩巻」(1018年)は、胸さわぎのする書だ。その中の一字、「山」。この「山」の字だけでも、とてもすごいと思う。
ながめているだけでは、骨格を欠いていてやわなように見えるが、その字画の跡を丹念にたどると、わずか三画から成る文字の中にわくわくするほど厖大な情報が埋め込まれていることに気づく。
書き出しの羽が触れるようなかすかな起筆。加速しながら浮上し、左横へ軽く圧し出され、その後、第二画に連続するために変速、転調する。
右下方からの力を受けとめ、減速しながらUターンして、通常とは逆向きの第二画起筆を描き出す。第二画の縦部を記す間もなく、外側にすべり出すように運ばれて後、じっくりと右方に折れるように転折部の起筆が描かれる。力はゆるめられ、横画を経て、再び力をゆるめて最終画へ連続する。
終止を意味するのだろうか、最終画は、楕円の軌跡を沈むようにたどる。そして、文字の中心に向かうような撥ねが、最後の余韻をとどめている。
この文字のすごさは、書線軌道が文字としての求心力を失わずに緊張していて、その力に抗しながら刻一刻変化する書線過程が、微細に、鮮やかに定着されている点にある。
力が斜め上方から加えられるため、わずかな力の加減が、大きな形状差に増幅されている。
字画を寄せ集め、統合して一字を構築する中国の楷書とは異なって、「山」の字画筆触は、蝶のように舞い、絹のようにひるがえるのだ。そこに「白楽天詩巻」の妖しくも、危うい魅力がある。

[比較のために、蕪村の「山」字を添える]



