読書逍遥第654回『書と文字は面白い』(その9) 石川九楊著
冨田鋼一郎
有秋小春

鏡に写った自分の姿を見ながら右手をあげると、鏡の中の後は左手をあげる。左手は右手になり、右肢は左肢、右は左眼、左耳は右耳に、そして右の黒子は左に移動している。
けれど、逆立ちをすれば鏡の像もそのまま倒立する。鏡像では左右は逆転するのに、なぜ上下は逆転しないのか!こんな疑問は何度問い返してみても楽しい。
重力世界、重力社会では、上下=天地は絶対的方向で、左右は可変の相対的方向だからと考えて、私はこの設問を解いたようなつもりでいる。
ところで、この写真の碑文。誤ってフィルムを裏返しに焼いたわけでも、いたずらで建てられたわけでもない。
六世紀前半。中国が六朝期、梁の具平忠蕭景の陵墓に左右一対の石柱が建てられた。
右柱の題額には正文で、左柱にはご覧のように反文(反替、裏文字、鏡文字)で「梁故侍中
/中撫将軍/開府儀同/三司呉平/忠侯蕭公/之神道」と刻られた。
裏返しの文字=反書には奇怪な印象が伴う。だが、我々にもまったくなじみのないもので
はない。日本の幼児も文字の覚え立てのころには、「あ」「け」「し」「す」「と」「も」「を」などの平仮名の左右の向きを反転して書き、母親や教師から小言をくらう。
それにしても、片側に正文、片側に反文の碑を建てるという中国書の強い左右対称意識には驚かされる。「田中一夫」「大森朋美」「高山」「北川」「青井」「金本」「林」…・・・。漢字に意外に多い左右対称形。その対称軸として隠れ、縦書に象徴される強靱な上下=天地軸。
漢字の形象的骨格の背後には中国人の思惟の堆積がある。
