読書逍遥第648回『ある運命について』(その5) 司馬遼太郎著

『ある運命について』(その5) 司馬遼太郎著
[中世の開幕と北条早雲]
中世の開幕というのは、かつて律令制による国家の農奴であった農民が、自分が拓いて自分のものになったらしい田畑の畔に立ち、しみじみとわが土をみつめたところからはじまったと私はおもっている。
たとえば、伊豆の狩野川流域の低湿地の一角に興った北条氏などは、当面、平氏を称していたが、むろん当時の関東の多くの土豪と同様、その氏素姓は公称どおりにはうけとれない。
時政以前はさだかでなく、おそらく各地から(ときに遠く畿内やその以西から)律令体制をきらって逃げだしてきた浮浪人をかきあつめ、その保護者になり、かれらを使って荒蕪の地をひらいた者の子孫であるかと思える。
狩野川がしばしばおこす氾濫は、低地に遊水池や沼をつくり、悪水を溜め、人の鍬を入れがたい地が多かった。諸国からきた浮浪人たちは、北条氏のような親方の保護を得ることによって、力をあわせ、排水路をつくり、土を入れてこのあたりを美田にしたのにちがいない。
律令時代、開田、開発田、はりたなどともよばれた墾田は、官によるあつかいがさまざまに変遷した。しかし法的な原則では公地公民であり、国家の公田であり、そうではありつっも、便宜的には国家に対し「不輸祖」という荘園にされた。開墾者は、つまらぬものであった。
かれらはせっかく開墾しながらも、その新田を公家や社寺に寄進してその名義のもとに#園にしてもらわねばならず、取りぶんはいくらもなかった。
北条氏など、東国・坂東の新興有勢者は律令的権力からみればごろつきのようなものであったろうが、荘園ですらないヤミの墾田を多く持つ者ではなかったろうか。このたぐいの者は、平安末期に未墾田を開田したり、荒廃田や不作田に郎党を入れて私有化し、それを大目にみてもらえるように在庁人にさまざま工作したように察せられる。
かれらが平家政権の成立に期待したのは、その一点にあった。しかし西日本の公的な荘園を基盤とする平家には、東国・坂東の事情に暗く、依然として律令的気分を継承し、坂東の北条氏レベルの新興有勢者を失望させたのであろう。かれらが、流人の頼朝を擁し、武力をもって坂東政権を樹て、やがてその律令打ちこわしの革命を全国に及ぼしたというのは、目のさめるような中世の開幕である。
「自分でひらいた田は、これだ」
という労働と欲望と所有の直結は、鎌倉のリアリズムを成立させた。その田畑の面積や良否についてひと粒の土までこまかく見る認識力ができた。
鎌倉期の彫刻にみる写実とそれ以前に作者の眼光の底にある認識能力が、所有権のあいまいな律令時代にくらべ、別種の民族がそこに誕生したかと思えるほどにちがうのは、社会そのものがそれほどまでに変ったためである。
「田地はわがもの」
という現実の誕生は、個の存在性を明確にした。むろん西洋における個の性格ほどにないにせよ、それまでの律令の世では、貴族、有勢者以外の人間は数ノ子の卵としてしか存在しなかったのに、あたらしい世になると、それぞれの目鼻だちのちがいがあきらかになった。
よくいわれるように、自分の田地という一所のために命を懸けるというあり方が、一所懸命という慣用語を生んだ。一所懸命という姿勢は、律令時代の農民にはなかったであろう。
その一所のために自作農は新興有勢家を頼り、新興有勢家は、自分たちの旗頭たるべき者を頼るのである。頼もしきということばも、この社会のなかでできあがった。
戦場や日常の進退で恥をかかないという美意識も、個の誕生の一現象とみていい。恥をかかないために、容易に命をすてた。西洋の個と比較すべきでないにせよ、前時代からみれば、あざやかな特徴といえる。
京の公家からみれば、土地訴訟でやぶれて世を捨て法然のもとに走る熊谷直実などは、一庶民にすぎない。一ノ谷の戦場におけるこの一庶民の進退や、日本の形市上的思想史からいって最初の絶対者というべき法然教の阿弥陀如来に帰依するこの一庶民の精神の帰着も、すべて、ことごとしく語られるようになったのである。
北条早雲(1456-1519)、この奇妙人について重要なことは戦国の幕を切っておとしたことである。
さらには室町体制という網の目のあらい統治制度のなかにあって、はじめて「領国制」という異質の行政区をつくったこともあげねばならない。日本の社会史にとって重要な画期であり、革命とよんでもいい。
この制度は、同時代の西洋における絶対君主制(16、17、18の三世紀間)の成立と重要な点で似ている。
西洋のその場合、農奴状況から脱した自営農民層と都市の商工業者の上にじかに君主が乗り、行政専門職をつくって領国を運営した。さらには常備軍を置いた。
北条氏もまた小田原城下に兵を常駐させた。
西洋の絶対君主制時代は、絶対という用語のまがまがしさによって毛嫌いされかねないが、しかしいい点もある。この体制によってひとびとは自主的に、あるいは組織的に働くことを知り、また商品の流通を知り、説く人によっては、日常の規範(朝何時に起き、何時に食事をし、何時に寝るといったような)ものまでひとびとは身につけたとされる。
いまとなれば何でもない能力だが、そんなものがひとびとに準備されていなければ、その後にくる近代的市民国家などは成立しえない。第一、市民はビジネスという絶対制以前になかったものを身につけることができなかったろう。ビジネスという空気のような、しかし結局は社会をうごかすものが無ければ、近代は成立しえないのである。
政治史的には「応仁ノ乱」が早雲を生んだといえなくはない。同時に、かれは室町期という日本文化のもっとも華やいだ時代の産物でもあった。
伊勢家はその頂点にあり、早雲はその室町的教養を持って東国にくだった。かれが土地のひとびとの敬慕をかちえた大きな要素はそこにあったにちがいなく、その意味において早雲は世阿弥や足利義政、あるいは宗祇、骨皮道賢たちと同様、室町人としての一つの典型だったともいえる。

