「教養」はどこへ 朝日オピニオン2025.4.5

「知の対話へいまこそ読書」
大澤聡 1978年生
近畿大学文芸学部准教授。
本を読むことで教養を形成するという価値観は、近代だからこそ成り立っていたのかもしれません。
インターネットによってあらゆるものが可視化された現代では世界は無限に広がっていて、全てを把握するなんて無理だと事前にわかってしまっています。
しかし手に入る情報が限られていた時代には、必読リストを読破すれば世界全てがわかるはずと思い込めました。冊数が限られ、頑張ればゴールまで行けそ
うな気がするからこそ挑む気になれたのでしょうね。
本には目次があります。1章、2章と番号を振って情報に序列を付け、スタートからゴールまで一直線に構築された体系性があります。前へ前へ、より高く、と駆り立てるその構造は、人格を高めたい、賢くなりたいという「教養主義」の上昇欲に合致していました。
一方、目次のないネットの世界は全てがバラバラで、序列も体系も曖昧です。情報が無限にあって、ゴールが見えないため目指そうともしなくなります。
そもそも、誰もが共有すべき知識や価値観あるという考え方は、権威を崩してみんな対等だとみなす20世紀後半からのポストモダンの時代に、力を失いました。多様性が重視される時代を背景に「この本は読んで当たり前」という同調圧力は働きにくくなり、教養は雑学や趣味のようなものに変わってきています。
気になるのは、多様化の中でむしろ権威主義化が進んでいることです。専門の島宇宙それぞれに小さな王様がいて、よその島から口を出すなという雰囲気がある。これでは全体の見取り図は描けません。教養主義が内包する「他者を知りたい」という知的欲求は手放すべきではないでしょう。
いま必要なのは島と島をつなぐ対話的教養です。自分の島の知を元手に、他の島の知への推測を働かせ、共通点を探る。そんな「比喩」や「要約」の力を磨くことが大切になります。
動画や音声メディアにもためになる教養コンテンツがたくさんあります。本を読んでみようと思わせる動機付けにも使えます。ただ情報は断片的だし、話し言葉は感情が優先される。論理的整合性や体系性では文字に勝てません。
感情で論理を埋め合わせするのは危ういと思うのです。映画やラジオが戦争に利用されたのは、考えるな、感じろということ。読書には時間がかかる。でも、それは人を冷静に考えさせる時間とも言えるのです。