読書逍遥第620回『愛蘭土(アイルランド)紀行I』(その3) 街道をゆく30 司馬遼太郎著
冨田鋼一郎
有秋小春

毎日糸を紡いでいくように、言葉を選びながら文章を綴っていく。少しずつ布が織られていく。ピースを埋め込んでいく作業に飽きるとブラブラ散歩する。
気になって清水幾太郎(1907-1988)の『私の文章作法』を手にする。ひとつひとつの指摘が思い当たる。
文章を書くとはどういうことか、何に気をつけるのか
[文章を書くとは、混沌との戦い]
[精神が混沌を組み伏せること]
[他人の精神の働き方を真似する]
人の心の中は、いろいろな観念が相互に衝突しながら同居しています。いろいろな思いがぶつかり合っている状態、これを混沌といいます。
混沌は生命の泉です。すべての美しいものは、この生命に満ちた混沌の中からのみ生まれてきます。
しかし、それが生まれるのには、私たちの精神が混沌に手を加えなければなりません。精神が混沌を組み伏せねばなりません。
文章を書くためには、順序(秩序)、取捨選択(選択の基準)が求められる。順序と取捨選択は精神が混沌に押し付けるものです。
自分の好きなスタイルの持ち主の真似をしてみよう、と私は申しました。しかし、本気で真似するとなると、もう文字や言い回しの真似では済まなくなります。「精神の真似」をすることになるのです。
精神の真似というのが変なら、考え方の真似と言い直しても良いでしょう。つまりその人の文章を真似しているうちに、その人が混沌にどういう秩序を押し付けるか、どういう選択の基準を押し付けるか、その流儀というか、方法というか、それを真似するようになるのです。その人の精神の働き方を真似するようになるのです。