(うたをつないで)

「雪ふりつむ。」、人は自然と歩む 蜂飼耳
2025年2月5日 朝日
三好達治の単純でゆたかな詩「雪」
三好達治は、蕪村晩年の淡彩墨画「夜色楼台雪万家」に想を得ていたといわれる
「雪は自然が見せてくれる手品だ」
蜂飼耳のこんな詩的な言葉に目が留まる
☆☆☆
雪の季節に思い出す詩がある。三好達治の「雪」だ。
雪
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
子どものころ、身近にあった詩のアンソロジーの冒頭に載っていた。紙の本の広い余白はそのままで雪の世界へ通じていた。
太郎と次郎は、子供だろう。兄弟かどうかはわからない。「眠らせ」というのだから、夜だろう。それくらいの想像は子供の一読者にも可能だった。二行の詩の中に冬の夜の平穏な眠りがあった。
雪は自然が見せてくれる手品だ。「雪降りつむ。」でこの詩が閉じられるとき、何を感じるかは人それぞれだろう。
大きく2つに分けてみよう。一つは、読後に広がる情感に身をゆだねる感じ方。もう一つは、雪が降り積もって、それがどうなったの、と続きを気にする感じ方。前者はいわゆる余韻を味わう受容の仕方で、後者は物語的な展開を求める感じ方、つまり散文的な受け取り方といえる。
詩や短歌や俳句などを楽しめるかどうかの鍵は、このあたりにあるかもしれない。いつ誰がどこでどうした、という情報がなかったり、極端に少なかったりしても、詩は成り立つ。受け手において膨らませる余地が多分にあるのだ。詩には、そのようにして心の動きを育てるところがある。
近代以降の社会や状況の複雑さを放置して、自然や花鳥風月的な事物ばかりを詠っていてよいのかという疑問や抵抗感が、戦争への反省とともに、戦後の詩を導いたことは確かだ。とはいえ、自然が詩歌の対象や要素から外れていくことはないだろう。そもそも、人間が自然の一部だからだ。
環境をめぐる視点がさらに重要性を増している現在、自然への視線と、社会や人事をめぐる観点との間には、新たな重なり方の探求があってよいだろう。そのヒントはこれまでの詩の蓄積にもあるはずだ。
「雪」にはうっすらと緊張感も宿っている。太郎と次郎の眠り、降り積もる雪、動かしがたいこの静けさは何かの前兆のようでもある。張りつめた美しさの中、かすかに戦慄すらも感じさせる。AIがいかに進展しても、人間は自然とともに歩む。