読書逍遥第488回『ルネサンスとは何であったのか』(その9) 塩野七生著

『ルネサンスとは何であったのか』(その9) 塩野七生著
「レオナルド・ダ・ヴィンチ」について
宗教と哲学の違いについて
「宗教とは信じること」
「哲学とは疑うこと」
15世紀末 フィレンツェルネサンス終焉期
1492 ロレンツォ・メディチ没
1494 メディチ銀行破綻
1494 サヴォナローラ神罰
ボッティチェリ画風の変化 歓喜→悲哀
フィレンツェから人材流出
@@@@
なぜレオナルド・ダ・ヴィンチに未完成の作品が多いのか
レオナルドにおいて、芸術も科学も技術も観察すらも彼自身のうちに一体化していたと言われるのは、すべてが「なぜ」から出発していたから。
思考のはじまりが「なぜ」なので、そこからの思考の過程はマルチになった。
並の才能の持ち主でも、創造はなぜの解明への欲求から始まります。この場合は創作の過程で、また完成して初めて、なぜの解明は成就するということがわかってきます。しかし、レオナルドとなると完成しない前にわかってしまう。
「それがレオナルドに未完成の作品が多い理由ですか?」
理由の1つではあるでしょう。もう一つの理由は、彼にしてなおできないとわかった時であったと思う。
「最後の晩餐」の壁画、中央に出すキリストの顔が最後の最後になるまで描かれなかったという。「三王礼拝」は描きの段階で放棄された。完成とはあるところまではやったが、それ以上の事は諦めたからできることでもあるんですよ。
「レオナルドはあきらめなかったのですか?」
レオナルドだって諦めたのです。ただしそれは作品が完成するとか、未完成で残ると言うのとは無関係であったと言うだけで、レオナルドと言う人は根源的に謙虚な人だったのですね。
「謙虚はクリエイターには必要不可欠でしょうか?」
必要不可欠ですね。誰にも負けないと言う傲慢損も不可欠な条件ですが。
「謙虚と傲慢では矛盾するのではないですか?」
普通の人ならば、ハレーションを起こして精神に不安定化になりやすい。しかしそう作者はこのどちらか一方に偏るのではなく、双方と志することで作品を作り上げていくのです。レオナルドも若いミケランジェロが敵回収を燃やしたほどに傲慢不遜でしたよ。
「レオナルドは、なぜ多数のスケッチや思いを書き残したのでしょうか」
あなたも、どうやらなぜ病にかかったようですね。しかし、なぜで生涯を貫き通したレオナルドに迫るには、なぜか何故かと問い続け、その一つ一つ、自分で回答をそうしてみる方法しかないのかもしれません。
私の場合、彼は観察し試作し、それによって監督と思いを書いたり、描くことによって、さらに施策を深めると言う作業を続けた人ではないかと思う点であろうが、画質であろうが、それらを使っての表現とは他者に対してではなく、自分自身に向かって語ることでもあるのです
文章や大河にすることによって、苗もより明快になるのだから、表現には伝達の手段としての役割だけでなく、頭の中にある考えをはっきりさせると言う役割もあるのですよ
