読書逍遥第346回『ぼくの哲学日記』(その3) 森本哲郎著1999
冨田鋼一郎
有秋小春
大事な指摘を見つけた!
心に刻んでおきたい
私は話すとか書くという表現行為(アウトプット)を、他者への伝達手段として捉えていたが、それだけにとどまらない
《表現とは、自分自身の考えを明快にするための手段である》
@@@@
[ルネサンスの本質]
見たい、知りたい、わかりたいという欲望の爆発が、後世の人々によってルネサンスと名付けられることになる精神運動の本質です。
創造するという行為が、理解の「本道(ストラーダ・マエストラ)」です。
ダンテも言っています。頭の中で考えるだけでは不十分で、それを口であろうとペンであろうと画質であろうとノミであろうと、”表現”してはじめて「シェンツァ」になる、と。
イタリア語の「シェンツァ」は、英語に直すと、「サイエンス(science)ですが、この場合は「科学」とか「学問」よりも「知識」ないし、「理解」と考える方が適切でしょう。
ダンテの言が正しい事は、あなたが今考えていることを、誰か他者に話すか、それとも文章に書いてみたらわかります。
頭の中で考えていたことが「表現」という経路を得ることによって、”より明快になる”という事実が。
話すとか書くことが、他者への伝達の手段であるとするのは正しいが、それとても手段のひとつに過ぎません。自分自身の考えを明快にするにも実に有効な手段でもあるのですよ。