第71回『柴田宵曲文集』全八巻
冨田鋼一郎
有秋小春
「自立は依存によって裏付けられている」
「自立」と「依存」は対立語ではない
幼稚園の子どもで言葉がよく話せないということで、母親がその子を連れて相談に来られた。知能が別に劣っているわけでもないのに、言葉が極端におくれている。
よく話を聞いてみると、その母親は、子どもを「自立」させることが大切だと思い、できる限り自分から離すようにして子どもを育てたとのことである。
このようなとき、その子の自立は見せかけだけのものである。親の強さに押されて、辛抱して一人で行動しているだけで、それは本来的な自立ではなく、そのために言葉の障害などが生じてきている。
自立ということを依存と反対である、と単純に考え、依存をなくしていくことによって自立を達成しようとするのは、間違ったやり方である。
自立は、十分な依存の裏打ちがあってこそそこから生まれて出てくるものである。
子どもを甘やかすと自立しなくなる、と思う人がある。確かに、子どもを甘やかすうちに親の方がそこから離れられないと、子供の自立を妨げることになる。
このような時は、実は親の自立ができていないので、甘えること、甘やかすことに対する免疫が十分にできていないのである。
親が自立的であり、子どもに依存を許すと、子どもはそれを十分味わった後は、勝手に自立してくれるのである。
自立といっても、それは依存のないことを意味しない。そもそも人間は誰かに依存せずに生きていくことなどできないのだ。
自立ということは、依存を排除することではなく、必要な依存を受け入れ、自分がどれほど依存しているかを自覚し、感謝していることではなかろうか。
依存を排して自立を急ぐ人は、自立ではなく孤立になってしまう。